凱歌のロッテ 歌集

創作ファンタジー「凱歌のロッテ」短編小説を公開中

メインストーリーの連載を開始しました

いつもご覧いただきありがとうございます。

こちらのブログでは今までサイドストーリーにあたる短編小説を掲載していましたが、カクヨムにて本編(メインストーリー)の連載を開始いたしました。

 

また、本編の連載開始に合わせ、タイトルを「凱歌のロッテ」と改めております。設定や登場人物などは今までと変わりありません。

 

https://kakuyomu.jp/users/tsulalakilikili

 

カクヨムにはこちらに掲載済みの短編を載せておらず、現時点では短編はブログ、本編連載はカクヨム、と使い分けるつもりでおります。

 

また、こちらで未完状態の「春の大祭」については、後日更新予定です。「春の大祭」を完結以降、新たな短編はどちらに載せるか未定です。

こちらは【試作置き場】と捉えているので、設定やキャラクター描写に迷いがあるときはこちらのブログに掲載するかもしれません。

 

今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

 

※よろしければPIXIVFANBOXにてご支援いただけると大変助かります!

【解説】春の大祭〈前編〉

花茶(せんかちゃ)/ 「ハーブティー」としても特に差し支えない。普段飲むものよりちょっと良いお茶。飲用の葉に乾燥させた花弁などを混ぜているため、香りが良い。

 

神僧(しんそう)/ 僧尽の中でも数少ない役職。常に知狎苑へ顔パスで出入りすることが許されている。必ず知狎から直接指名され、所属も知狎苑近くの寺院へ変えられてしまう。(青の国の場合は、東苑を管轄とする理天東鹿寺院の所属となる)

稀に神僧への転向を拒む者がいるが、知狎がそれを許すこともまた稀である。

 

北苑(ほくえん)/ 現在、東世の人々にとって聖地のような場所。北苑を要する黒の国の都が「東世の中心」と見なされる。

 

梅、一梅(ばい、いちばい)/ 一口で食べるのにちょうど良い大きさ、ということで単位に梅が抜擢された。つまり「一口大に切る」と言われたら梅の実くらいの大きさに切れば良い。ただし、ここでいう梅は梅干しではないので結構大きい。一梅はおよそ3.5cm前後、東世の人々の一口は大きいのである。

大昔は一口分の大きさとして「一匙」など様々な表現をしていたが、どれも誤差が大きすぎて廃れた。

 

骨、一骨(こつ、いっこつ)/ 魔法使いの杖はほとんど骨と同じ成分でできていると言われ、見た目も骨をわずかに加工したようにしか見えない。古来より杖を(自分の)骨と見なす文化が浸透している。

梅、骨よりさらに正確な単位もあるが、西世の数学を学んでいないと使いこなせないため、大学くらいでしか使用されない。細かい計測が必要な職業の者も既存スケールを用いることが多く、意外と数学的な単位の存在を知らないらしい。

 

朱の国の呪号 / 「タン」は他国の呪号とあまり似ていないが「自分たちでもっと便利な呪号に変えていこう」と様々な人がアイディアを出して改変を重ねたため。漢字をあてると「魄発」となる。朱の国の人々は感受性を重視し、喜怒哀楽の激情や精神性を重んじる傾向が強い。朱雀の都は古来より劇作家や文学者が好んで集まる場所であり、歴代の文系たちの叡智の結晶がこの呪号なのである。

 

黒の国伝統の舞 / 他国には舞を舞う人が少ないので、確実に「由緒正しい伝統の舞」と呼べるようなものが黒の国にしか残っていない。東世の舞は「課題曲ありのフリースタイル」であり、他者の舞を参考に舞っても良いし、完全オリジナルで舞っても良い。古い詩などをなぞって自分で振り付ける。そのため、言われなければ舞だか踊りだかわからないこともある。

踊りと同じでいつもBGMがある中で舞うとは限らないが、大祭で神僧が舞を捧げる時などはだいたいBGMが付く。

 

菊祭り / 九月九日の吉日。春と夏の大祭に比べると特別感に欠ける。神に歌を捧げる、あるいは歌によって生を讃えるのが慣わし。

この頃は何を食べても美味しいので、道端の野菊さえ美味しそうで食べてしまいたくなる、というのが菊の日の由来。

 

僧兵(そうへい)/ おまわりさん、刑事さん、SAT、警備員さん、災害救助員さん、ボディガードなど、幅広い仕事を請け負っている僧尽。ときに過酷な仕事もこなさなければならないが、人数が多いこともあり、暇な日も多い。

 

伴氏(はんし)/ 東世では生涯のパートナーをこう呼ぶ。未婚の恋人は「半氏」と表すが、特にこだわらず伴氏と呼ぶこともある。現在の東世には婚姻届に当たるものがないため、すべて自己申告である。そのため結婚するときは面倒がなくて良いのだが、離婚するときは泥沼になることが多い。

 

伴伴(はんはん)/ 日本語で言うところの夫婦にあたる。未婚のカップルは「半半」だが、区別しないこともある。

性別に制限はないが、古い言葉では夫婦のことを「お嫁さん」と「お娶さん(おむかえさん)」と表現した。プロポーズした方がお娶さんで、意味は「迎えに行く人」、一方のお嫁さんは「家の宝のような人」。重婚が可能だった頃の言葉であり「伴氏」が一般的となった昨今では、嫁と娶という言葉は古臭い。

今では重婚は認められないが、公的な婚姻証明がないことから不倫裁判も叶わず、呪いの誓約書でもなければ浮気はほぼ泥沼化してしまう。現在の東世が抱える由々しき問題のひとつである。

 

キャメラマシン / 通称キャメラ。写真を撮ることができる道具。すべての人が同じ魔法を使えないことから、機械仕掛けの道具も少なからず存在する。完全に機械仕掛けであるか、多少魔法が作用しているのかは、作った人に聞いてみないとわからない。機械は西世由来のものが多いため、機械全般をマシンと呼ぶ。

 

可愛い名だな / 実際、東世の人は「マイマ」を可愛い名前だと感じやすい。東世で「ムウムウ」という言葉が爆発的に流行ったのは、日本語のマ行の音がみんな好きだから。また、母音がエで終わる名前には「賢そう、クール」などのイメージを抱く。だからフィオロンは、エルメではなくメルの名を可愛いと言っている。

 

鹿時計(しかどけい)/ 知狎が管理している、魔法の時計でありカレンダーでもある。針は1本しかなく、東が3時、西が9時、南が6時、北が12時だが、鹿時計に数字は付いていない。(ただし、針が2週で1日という読み方は日本と同じ)

早朝、朝、昼、夕方……といった表現の方が一般的。毎日夜になる時間が異なり、1日の長さが一定でないため、時間の表現が自然と大雑把になった。

 

黒の国の呪号 / 玄武体術に最も適している呪号。漢字は「魄尖」で、唱えるときは魂を磨いて張り詰めていく、とイメージする。集中型という点では白の国の呪号と似ており、白の国には玄武体術のときだけハイを使うハイユーザーがいるらしい。

黒の国は勤勉で辛抱強く、助け合う国民性だと言われているが、冗談や楽しいことも大好き。

 

大師(だいし)/ 僧尽の敬称は普通「法師」だが、直接指導してくれる上司や親しい間柄の先輩に対してこう呼ぶことがある。地元の有名な僧尽や、過去の偉人を指して「大師さん」と呼ぶことも多い。

顔見知りも大好きなお友達も「朋人」の呼び方で一括りにする東世にしては珍しく繊細な区別。それだけ寺院において脈々と受け継がれる文化は独自性が強いのである。

【小説】春の大祭〈前編〉

朝と昼の間頃、藤京学院めがけて流れてきたやたらと大きな流れ星は、どうやら他の学院からの贈り物だったらしい。

というのも、なかなかお目にかかることがないほど巨大なその流れ星には、返事もいらぬような挨拶程度の連絡しか書き込まれていなかったのである。ありがたく頂こう、と誰かが言うと、あちこちから歓声が湧き、それにいくつかの歌声が続いた。子どもたちは外へ飛び出し、数名の教師らがそれを追いかける。休日前で、ただでさえ学院内には浮き足立った雰囲気が漂っていたが、さらに思いがけずこのような僥倖が飛び込んできたのだ。まるで皆の喜びが同時に爆ぜたようだった。こうなってしまえばもう、喉の奥から歌が溢れ出てくることも、自然と身体が踊り出してしまうことも、すぐには止められないものである。

 

第四月の三日目は穏やかな晴天だった。雨は昨日降ったばかりだから、おそらく明日も晴れるだろう。なにしろ四月四日は春の大祭『鹿祭り』である。過去二千年の記録を見ても、この日に大雨が降ることは滅多にない。多くの人々が勉強も仕事も放り出して歌い踊り、時たま道端で買った菓子をかじってまた踊るのだ。心身ともに逞しい東世の人々が、多少の雨でその楽しみを諦めることはないが、それでも大祭のような特別な日は晴れているほうが喜ばしい。

食べやすく刻んだ流れ星をどっさりと皿に盛り、迎賓舎に滞在してる客人のもとへと運ぶ役割は、教師のフィオロンが買って出た。

寺院ならばともかく、学院内にわざわざ客人用の宿舎をあつらえているのは藤京学院だけかもしれない。校舎に比べれば小さく簡素な造りの迎賓舎は、五年程前、藤京学院の端にひっそりと建てられた。来客が気兼ねなく休めるよう、子どもたちはあまり近寄ってはいけないことになっている。

名ばかりは迎賓と冠しているものの、ここに宿泊する者は各地の寺院から藤京を訪れる『研究士』の肩書きを持つ僧尽ばかりだ。藤京区を訪れる研究士は数あれど、藤京学院に用のある者はごくわずかで、文字どおり手指で数えられる程度しかいない。そのため、建物内に造られた客室はわずか四つである。見栄えは悪くなく、決して粗末でもないのだが、こじんまりしていて手狭であることは否めない。そのためなのか、フィオロンや他の教師たちはもともとこの建物を『迎賓館』と認識していたのだが、いつの間にか研究士らの間で「迎賓舎」という呼称が共有され、そちらの方が広まってしまった。もはや、研究士はもとより、子どもたちや教師でさえ迎賓館と呼ばなくなって久しい、という体たらくである。

フィオロンが迎賓舎の二階へ上がってゆくと、簡素な調理場を兼ねた大広間で、数名の研究士が各々寛いだ格好で話をしている最中であった。彼らの様子に普段と変わったところはないが、妙に人数が多いように感じる。フィオロンは、茶器などが収められた背の低い棚の上に、たった今運んできた大皿をどんと置きながら「どうも」と軽く挨拶をした。

「珍しくたくさん集まっていますねえ。いま部屋を使っているのはあなたがただけですか?」

そうだと頷いたり手を挙げて応えたのは、遠い他国の寺院から派遣された研究士、朱の国のシューランと、黒の国のソンテであった。青の国の最西部、理天区から来ているエルメとメルの姉弟は、どちらも口いっぱいに菓子を含んでいるためおとなしく沈黙している。この姉弟はいくつ空き部屋があるときも二人で同じ部屋を使う。迎賓舎に四つある客室のうち、三部屋が埋まっている状態か、と、フィオロンは適当な容器で湯を沸かしながら計算した。

「しかし、そろそろジュゼ法師もあちらから戻って来るはずだ」

「他にもいらっしゃるのですか」

シューランの言葉を聞いて、フィオロンは思わず大声で聞き返してしまった。常ならば、各地の研究士が一堂に会する機会はそうそうないのだが、彼らにとっても大祭は仕事を区切る目安となるのだろう。そういえば、エルメは少し前にジュゼと鹿祭りに行く約束をしたとはしゃいでいたし、シューランも大祭当日は幼い子どもと過ごせるよう、青龍の宿で家族と合流する手筈であるとフィオロンに語っていた。

「ソンテ法師は明日お休みなんですか?玄武の都って主都だし、神僧は大祭の日ってなにかと忙しそうですけど」

メルに尋ねられたソンテは、切れ長の目を細めてにやりと笑むと、右手に持った煎花茶の器を左右に振りながらゆっくりと頷いた。体の動きに合わせて煎じた花の香りが漂うものだから、まるでソンテの喜びが芳しく溢れ出ているようである。

「さすがのおれも、春の大祭では毎年毎年あれやこれやと使われて、少しばかり鬱憤が溜まってたから。今年はちょっと長めの休みをぶん取ってやった。明日は可愛い後輩がたくさんお勉強できるだろう」

「長いお休みをもらう時は、おれたちと同じように寺院へ申し出るんですか?」

再び、メルが問う。

「各国で神僧の数にばらつきがあると聞くし、他国では違うかもしれないが、おれのところでは自分の要望を通すためにまず、どうにかして知狎をねじ伏せないといけない。それから知狎の許可を得たから休むぞと寺院に申告する流れだな。少なくとも北苑ではそうする」

ソンテは北苑の知狎から選ばれた神僧であるが、それと同時に、世界中を飛び回って様々な調査をおこなう研究士でもある。それだけでもかなり独特な立場の僧尽であるが、ソンテの場合は玄武体術がめっぽう強く、ここ数年は黒武王として名を馳せている。もともと玄武体術は黒の国が発祥であるため、黒武王の称号は他国の武王らからも一目置かれる特別なものだ。ソンテは今秋に二十四歳となり、天上武王ジュゼとは一歳しか離れていないため、人々からは「不遇の世代」と呼ばれる一方「ジュゼに勝てる者がいるとしたらソンテだろう」と期待もされている。とにもかくにも、黒の国で最も有名な人物と言って差し支えない。

ソンテはまるで強い酒をあおるように煎花茶をくいっと飲み干すと、常時より少し穏やかな表情で、ふうと満足げなため息をついた。

「明日は飽きるまで寝たあと青龍あたりをうろつくつもりだから、シューラン法師とはまたお会いするかもしれませんね」

「ああ。法師の邪魔はしないが、もしばったり会うことがあったら息子に挨拶をしてくれると嬉しい」

フィオロンは棚の奥から西世風の陶器のポットを取り出し、一掴みした茶の葉をパラパラとその中へ入れながらシューランに尋ねた。

「法師、ご家族との待ち合わせは明日ですか?」

「その予定だ。明日の朝まではこちらで厄介になる」

「今さっき戻られたばかりなのに魂がお強い。信じられないくらい元気な御仁ですね」

賞賛の言葉に反し、特に感心したふうでもない静かな声でソンテが呟いた。沸騰した湯をポットに注いで蓋をすると、フィオロンはエルメとメルの方へ向き直る。

「おまえたちは……この後どうするんでしたっけ。理天へ帰るにしてはのんびりしていますね」

「うん、今年は帰らないんだ。おれはこのまま一泊して、早朝に紫錦へ行く」

「紫錦ならすぐ着くでしょう。そんなに早く出発するんですか」

鹿祭りは深夜までおこなわれるため、朝はわざと寝坊をし、夜更かしを楽しむのが一般的なのだ。

「祭りの化粧をするから早く来いって言われてるんだ。で、エルメはどうするんだって?」

メルは眉間にしわを寄せてエルメをねめつけたが、エルメは弟の不満げな表情などまったく意に介さない様子でふふっと微笑んだ。

「わたしはジュゼ法師がお戻りになってから決めるけど、今晩はここでお休みになるとおっしゃると思うな」

「いいなぁエルメ、ジュゼ法師とどこの鹿祭り行くんだよ」

「メルに言ったらついてきそうだから内緒!おにいにも絶対ついて来ないようにしてって言っておいたからな」

「おまえなぁ、なんでそういうことするんだよ!おれが未練がましく法師に付きまとってるみたいで恥ずかしいだろ!」

いつもの口喧嘩の時とは違い、二人とも口元が笑っている。もともと似ていない姉弟というわけではないが、明日が楽しみで仕方ないというときの笑顔は本当にそっくりだ。赤の他人ながら、フィオロンはこの二人を幼い頃からそれなりによく見知っている。先の晩冬、弟のメルがようやく十五歳の若秋となった。二人とも寺院に属して働くほど大きくなったというのに、子どもの頃と同じ幼気な笑顔ではしゃぐ姿を見ていると、フィオロンは妙に安心するような、なんとも言えず不思議な心地になってしまう。

「それよりフィオロン先生、その流れ星は理天のだろう。届いたばかり?」

エルメが先ほどよりもやや低い声でそう問うた。エルメとメルは、東鹿寺院所属の僧尽となった現在でも理天学院の寮館を自宅としている。もしや何か悪い報せがあったのか、と気がかりなのだろう。

「昼前に届きましたよ。でも要件というほどの要件は書いていなかったので、消さずにそのまま持ってきました。召し上がるときは各自で消してくださいね」

流れ星は用が済めばただの『おやつ』となるが、送り主から書き込まれた内容がいちいち頭にまとわりついては食べるのに邪魔となる。そのため、用事を読み終えて食用とする際は、流れ星に新たな魔法をかけ、送り主によって書き込まれた情報を忘れさせてやらなければならない。その行為を一般的に「消す」と言う。人並みの魔法が使える者であれば誰にでもこれを消すことが可能で、食べながら消すということさえ難しくはない。

向かい合って配置された長椅子の間には、楕円型の卓が置かれている。フィオロンはその卓上に、自分を含めた人数分のカップと、流れ星の欠片を山盛りにした皿を置き、自分はエルメとメルの間にぐいと身体をねじ込んで腰掛けた。フィオロンは長身のため体躯もそれなりに大きく、姉弟は狭苦しいと言わんばかりにもぞもぞ体を動かしている。

「さ、わたしも休憩です。お昼ごはんの後からずっと立っていたので疲れましたよ。それよりエルメ、よく理天の流れ星だとわかりましたね。見分ける方法があるならわたしにも教えてくれませんか」

「わたしもぜひ知りたいな」

細かく刻まれた流れ星を遠慮なく一掴みしながら、シューランがエルメのほうへ顔を向けた。

「いえ、理天学院から来たのがわかるんじゃなくて、ユノン先生が作った流れ星がわかるだけで。不透明で、根元だけ乳白色だけど全体は藍色です。これはもう細く切ってしまっているけど、大きな五角形の結晶がゴツゴツ付いてて、たまに少しだけ六角形が混じってる」

「もともとはどれくらいの大きさだったのだろうなあ。だいぶ大きかったのではないか」

何か興味をそそられたらしく、シューランは面白そうに笑みを浮かべながらフィオロンに尋ねた。

「少なくとも八梅……十梅近くあったかもしれませんねえ。人の頭よりずっと大きかったですよ」

一梅は文字どおり梅の実一粒程度の大きさを指す。人によって思い描く梅の大きさが異なるため、単位が大きくなるほど差異が出てしまうが、十梅は魔法の杖の長さ程度と決まっている。そのため十梅は一骨とも言う。実際は杖の長さにも二梅か三梅ほどの個人差があるのだが、それでも「二十個分の梅」より「二本分の杖」のほうがはるかに正確な長さを伝えられるため、三梅程度は誤差の範疇と片付けられる。

「ユノン先生の流れ星は大きくても小さくても必ず同じ色で同じ形だから、迷子になったら流れ星を落としながら歩いてねって言ってあるくらいなんです」

エルメはやけに神妙な顔でそう呟いたが、シューランは楽しそうに声をあげて笑った。

「それは良い考えだが、わたしなら落ちている流れ星を見つけたら拾って食べてしまいそうだな」

「おれもです」

「構わないんじゃないですか。流れ星を食べて辿っていけば迷子のユノン先生を見つけられるでしょう。その代わり二個か三個だけ食べてやめてしまってはだめですよ」

「では二個か三個で腹が一杯になったらどうすればいい?」

「腹が膨れていたって関係ありません。おれは流れ星が落ちているのを見つけたら儲けと思って拾いますよ。法師は流れ星が落ちていても拾わずにいられるんですか」

「わたしは息子に拾ったものを食うなと言ってあるからなあ。まあ、拾うだけ拾ってあとでこっそり食べればいいのか」

フィオロンとソンテはそうだそうだ、そうしようと頷き合ってから少し笑った。ひとしきり冗談でもない冗談を言い合ったところで「それはそうと」と笑った顔のまま首を捻ったのはシューランである。

「どうしたらいつも同じ形にできるのだろうか。わたしも流れ星を作ることはあるが、色も形も毎回様々だぞ」

シューランは右の手のひらを目線の高さに上げると、一度だけ「タン」と声を張った。朱の国の呪号である。すると、次の瞬間にはもう、一梅にも満たない小さな流れ星がころりとシューランの手の上に転がっていた。色は藤色に濃紅と薄紅が混じっており、尖った細長い結晶でできているように見える。珍しい色形というわけではないが、小ぶりとはいえ瞬く間に流れ星を作ってしまったシューランに感心し、全員が興味深そうにできたての流れ星を覗き込んだ。

「ほら、今日はトゲトゲしていてやけに赤い。薄紅や紫になることのほうが多い気がするんだが」

ソンテは何か思案するようにそれを眺めていたが、やがておもむろに口を開いた。

「充分な量の魔力を注ぎ続ければ同じ形の流れ星になる、というようなことを、どこかで聞きました。どの程度を充分な量と呼ぶのかはわかりませんが、要するに、うんと強い魔力で作ればいいんじゃないかと思います。ユノン先生が毎度毎度、神経質に魔力の量を調整しているというなら話は別ですが」

メルとエルメはほとんど同時に顔をしかめると、腕を組んだり足を組んだりしながら互いに顔を合わせた。

「いや、実際はどうかわからないですけど、おれには適当に作ってるようにしか、見えないというか」

「わたしもです。流れ星じゃなくたって、ユノン先生が神経質に何かを整えてるところなんて見たことが、ないような」

「おれもそうかなと思って。魔力が強い人間が作ると、工夫を施さずとも勝手に同じ形になるんじゃないか。たぶん」

ソンテはそう言って自分も脚を組むと、細く刻まれた流れ星をパラッとつまんで手のひらに乗せ、確認するように少し舐めた。流れ星を読むときに舌で触れるのは、寺院育ちの僧尽によく見られる癖である。寺院は昔から働き手が多く、情報を共有しなくてはならない者の数が多い。そのため、万が一必要な者へ行き渡らなかった際に分け与えられるよう、流れ星の欠片を渡されてもしばらく食べずに持っておくのだ。口に含む前に舐めるのはその名残で、寺院にはそのような古い慣習がいくつかあるらしい。フィオロンもソンテと同様寺院育ちだが、幼い頃身についたこの所作はもう身体が忘れ始めているようで、最近はすぐに食べてしまうことの方が多い。

「たまには理天にも寄っていくかな」

誰に言うふうでもなく、ソンテがぼそりとそう呟いた。流れ星の欠片を眺めるような格好でしばし黙り込んでいたが、ややあってそれを口の中にぽいと投げ込んで咀嚼する。フィオロンとシューランも、それに倣うようにして藍色の欠片を口に含んだ。舌の上にそれを乗せると、木の実よりも花に近い、なんとも言えない芳しい香りが口内に広がった。舌の熱で少し溶かせば、まったりとした強い甘みが溢れてくる。しゃくしゃくと噛むとほのかに苦みも感じられるが、それもまた美味い。皆口々に「ムウ」と喜びの声を上げて、その味わいを楽しんだ。

「絶対流れ星のほうがおいしいのに、鹿祭りで食べるものってなんであんなにおいしい気がするんだろう。どこの町の露店でもたいしたものは売ってないって、おれは最近やっと気づいたんだ」

悩ましげに唸るメルの様子がなんだか可笑しく、シューランとフィオロンは思わず笑ってしまう。ソンテも気分が良くなったらしく、体を動かすと言って大広間を出て行き、エルメもそれについていった。エルメは幼い頃から踊りを好まず、メルが楽しそうに歌い踊っているときも横で鼻歌を歌う程度だったのだが、黒の国伝統の舞はどうやら彼女の性に合うらしい。メルによると、最近はなかなか楽しそうにソンテたちの真似をして舞っているのだという。それはぜひ見てみたい、とフィオロンは階下の様子を眺めようと立ち上がったが、シューランに止められてしまった。ただでさえ青の国では舞を見る機会が少なく、皆が皆エルメの舞を見てみたいと言うものだから、近々『お披露目』をする約束をしたそうなのである。その代わり、そのときまではあまり練習しているところを見ないでほしい、とエルメから言われたのだそうだ。

「それはうまく丸めこみましたねえ。誰が約束をさせたんです?」

「言い出したのは誰だか忘れたけど、約束の相手はおれとソンテ法師とシューラン法師と、理天の先生みんなと、その他たくさんと、あとフィオロン先生も追加しとく」

メルは生意気そうな目つきでにやりと笑う。

「そういうことなら楽しみですねえ。そうだ、せっかくなら菊祭りの頃に見たいですね。ちょうどエルメの誕生日ですし、素敵でしょう」

「それはいい考えだ。吉日に舞を披露するとは縁起の良い!メル、メル、あとでエルメにそう伝えておいてくれ」

「それはいいですけど、二人とも、まずは明日の鹿祭りじゃないですか!おれは今ちっとも菊祭りのことなんか考えたい気分じゃないのに、大人ってなんでこう気が早いんだろう」

呆れたような顔でメルがそう言うのがなんだか可笑しくて、フィオロンは少し笑ってしまった。「菊祭り」や「菊の日」とされるのは第九月九日、秋の祭は祈りの日である。春夏の大祭とは異なり、幼い子どもたちが心待ちにするような祭日ではないが、一年で最も縁起が良いとされる特別な日だ。しかし、信心深い両親の元に生まれたフィオロンでさえ、幼い頃はただ歌を歌う日だという認識しかなかったように思う。メルが秋の祭にさして興味をそそられない心情もわからないではない。一方シューランは「メルの言うことにも一理ある」としばらく笑顔で頷いていたが、次第にそれも、何か幸せな思い出に浸るような、不思議と柔らかで落ち着きのある表情へと変わっていった。

「わたしも若秋の頃は春と夏の大祭だけが楽しみだった。だが大人になってからはな、菊祭りも良いものに思う。とても良い日に。朱の国へ帰ってからは特にだな。わたしは明日の鹿の日と同じくらい、今からでも菊の日が待ち遠しい。エルメの舞を見に行くときはマイマとアイシュも連れて行きたい。二人と一緒にあの子の舞を見れたら、きっと魂が膨れ上がるように幸せだろうな。きっと素晴らしい日になる」

シューランは朱の国、朱雀の都出身である。しかし「様々な土地に住んでみたい」と言い、十五から二十五歳頃までは各国のあちこちを放浪していた。実際、彼は東世四国各所の寺院に所属した経験があり、その名残で今でも顔が広い。体力自慢で長らく僧兵の職に就いていたが、十年前結婚を機に再び朱雀へ住まうようになり、それと同時に以前からの勧めを受けて研究士へと転向した。

東世では古来より、危険な仕事をする者や長期間家を空ける者は、髪を剃って家族や恋人へ預ける習慣がある。研究士となって以来ソンテも短髪を貫いているが、歳若い者は好んで髪を短くすることもあるため、彼の髪を見ただけでは一概にそのような職の者だとはわからない。しかしシューランの髪はそれよりもさらに短く、一目で家族へ預けるために切ったのだとわかる。

シューランの髪を預かるのは彼の伴氏であるマイマだ。シューランと話したことがあるほとんどの者は、会ったことがなくとも「マイマ」の名を知っていた。

「マイマ!我が伴氏ながら可愛い名だなあ!」

これがシューランの口癖だからである。家族の話をしているときはもちろん、突然「マイマ!」と口にした直後にそう叫ぶこともあるので、彼の周囲にいると自然と覚えてしまうのだ。シューランにとっては愛する女性の名それ自体が歌のようなものなの、なのだという。

誰の目から見ても仲の良い伴伴だが、長年子宝に恵まれず、昨年ようやく決心し珠珠の子を迎えた。珠珠の名はアイシュという。シューランはしばらくの間「美しい子だ、美しい子が息子になった」とはしゃいでいたが、彼に会ったというエルメとメルの話では、決して親の欲目というわけではなく、確かにアイシュは幼いながらに見たこともないほど綺麗な子なのだそうだ。アイシュとシューランは肌の色こそ似ていなかったが、二人とも髪の色が淡く、鮮やかな青の瞳も似ていたため、父子が並ぶとそっくりでこの上なく愛らしい、と、マイマもキャメラマシンを一時も離さないのだという。

シューランとメルが菊祭りの話をしている間、フィオロンは静かに茶の湯の香りを楽しんでいたが、ふと思いついてシューランに提案をした。

「法師、明日またお餅を作りますが、ご家族の分も用意しましょうか」

「いや、結構」

「おや、そうですか」

「フィオロン先生からいただく餅はなあ、それはそれは美味しいんだ。いや、本当に美味い。しかしいつも、あまりにたくさん持たせてくれるから、道中食べきれず必ず余るんだ。その余ったのを家でマイマとアイシュが食べて、それでも一個か二個余るから、次の日に誰かの弁当にしている。だからいつもと同じ量で充分だ。二人ともとても美味しいと毎回喜んで食べているよ」

「そうですか」

声音こそ常時と変わりないが、自分が作ったのだから美味いのは当然だ、と言わんばかりにフィオロンは胸を張った。フィオロンの作る餅は、やけに大きいことを除けば特に余所の餅と代わり映えないように見えるのだが、不思議と美味しくて他のものとは比べ物にならない、と、どこへ出してもとにかく評判が良い。餅の本場は稲作が最も盛んな朱の国であるが、そこで生まれ育ったシューランやマイマが褒めるのだから、東世中の誰が食べても美味いと言うのかもしれない。

「しかし、マイマか。やはり可愛い名だな……」

しみじみと噛みしめるように、シューランはお決まりの独り言を漏らしたが、どうした気まぐれか、今日はフィオロンがそれに食いついた。

「前々から考えていたんですが、わたしはメルもなかなか可愛いと思いますよ」

「ちょっと先生。おれを引き合いに張り合うのやめて」

メルはほのかに顔を赤くして横目でフィオロンを睨んだが、フィオロンは無視した。

「あ、可愛いで思い出しました。おまえたちの着物を預かったままでしたね。綺麗にしましたから、忘れないうちに持ってきます」

「あぁ、ありがとう……でも、なんで可愛いで思い出すのが着物?」

メルから訝しげに問われ、フィオロンはふっと微笑んだ。

「とっても可愛かったんですよ、いつの間にかエルメよりメルの服の方が大きくなっていて。それでもまだ私のものよりずっと小さいですけれどね」

シューランはなるほどと笑ったが、メルにはあまりよくわからなかったらしい。不思議そうに口を曲げているメルの片頰に軽く触れてから、フィオロンは静かに立ち上がり、迎賓舎を出た。

 

 

  *  *  *

 

 

ソンテが布団の中から這い出ようという気になったのは昼頃で、鹿時計はほとんど真北を指していた。こんな時間だというのに、外も二階もあまりに静かで不思議な感じがする。ソンテがごろごろと転がっているこの寝室は、他の三部屋とは隣接しない階段脇の部屋だった。研究士の間でのみ『ジュゼの部屋』という呼び方で通じる。実は『ソンテの部屋』と呼ばれる部屋も別にあるのだが、ソンテが迎賓舎へ到着した日、その部屋にはすでにジュゼの荷物が置かれていた。しかしそんなことは日常茶飯事で、自分の名前を冠している部屋に必ず泊まるという決まりはない。どこの部屋と互いに伝え合うのに便利だからと、適当に名付けただけである。

あまり腹は減っていなかったが、起き上がって体を伸ばすと無性に白湯を飲みたくなった。眼球も手足も肌も内臓も、身体のあちこちがからからに乾いているようで気持ちが悪い。ソンテは誰もいないだろうとたかをくくり、寝間着を脱いでいる途中のような格好のまま二階へ上がった。階段を昇りきって大広間の扉を開けると、意外なことに人の影がある。ソンテがよくよく目を凝らすと、長椅子の上で縮こまって座っているエルメと目が合った。互いに一瞬、黙りこくって固まる。二、三回瞬きをしたのち、エルメは少しだけ顔を持ち上げて、小さなかすれ声で「おはようございます」と呟いたが、ソンテが「おはよう」と返すと、彼女はまた干した茸のように縮んで小さくなってしまった。

おそらく、約束相手のジュゼが帰って来ていないのだろう。だからといってメルや他の者についていく気にもなれず、意固地になってジュゼを待ち続けている、といったところだろうか。今更ではあるが、ソンテは脱げかけの寝間着の胸のあたりを引っ張りあげながら思案した。長椅子の下には毛皮の外套らしきものが落ちており、エルメはすぐにでも出かけられる準備が整ってるように見える。

「これからおれと行くか、エルメ」

「大丈夫です。ここで待ってますから」

「無理にとは言わないが、おれと一緒にいるぶんには困らないだろう。たまに戻って来ればいい、ここへ」

ソンテはそう言いながら大広間の床を指差す。すると、それまで憮然としていたエルメの表情が、そのまま泣いてしまうのではないかというほど急に緩んだ。ソンテに非はないはずだが、なんだかいたたまれない。いつまでこうして座り込んでいるつもりだったのか知らないが、案外融通の利かない幼な子のようなところがある、と呆れもした。

「服を替えてくるから、白湯を作っておいてほしい」

床を撫でていた寝間着の裾を翻すように踵を返し、ソンテは再び階段を降りた。

支度を終えて大広間に戻ってきたソンテを見て、エルメはおや、と首を傾げる。再び現れたソンテがまとっていた服は、どこかで見たことのあるアルカディエだった。

数年に一度、各国の寺院で用意する安価な衣服のことをアルカディエと呼ぶ。これは東世中すべての人のために作られるもので、人によって仕事着にすることもあれば晴れ着として用いることもある。アルカディエは格式の枠から外れており、また体を動かしやすいものが多いため、その性質は学院の教師が着る制服に近しい。とはいえ、一国だけでも四種類から五種類のアルカディエを作るため、凝った意匠のものから首を通すだけで着られる大布ようなものまで、色形は様々だ。もともとは着るものを自力で決めることが難しい人々に向けて作られたのだという。そのため、多くの要望を取り入れてアルカディエの種類が豊富になってしまった現在でも、わざわざ「これが欲しい」と言わなければ僧尽が勝手に選んで持ってくるらしい。

ソンテはどちらかというと自分で着るものを選ぶのが好きなほうなのだが、他人が勝手に用意するという点を面白いと感じるらしく、新しいアルカディエが出たら一着か二着を適当に持ってきてもらうのだと言う。要するに運試しや占いのようで楽しいのである。

「これはたまたま気に入ったからよく着る」

ソンテはそう言いながら、エルメに腕を広げて見せた。渋い緑色の着物は立襟で、留め具は黒い。袖や留め具の周りには白の糸で少しだけ刺繍が施されている。よくよく見れば、確かにソンテが好んで着ている私服に雰囲気が似ているのかもしれない。一方のエルメは、将来きっとアルカディエの世話になろうと決心している一人である。今はメルが選ぶ服が自分にも好ましく感じるので譲ってもらっているが、もし一人で買ってこいと言われたら困ってしまう。今日もほとんどメルから譲ってもらったもので固めているが、甘くなる前の果実のような、明るい翠色で刺繍が施された靴は、唯一自分で選んだものだ。

ソンテが首の後ろから毛皮の塊のようなものを出したのを見て、エルメも床に落ちたままの外套を拾い上げた。まずは頭巾になっている部分を頭に被り、余った部分を羽織って胸の前で紐を結ぶ。頭巾には鹿の耳に見立てた飾りが付いている。ソンテの用意したものは腰に縛りつける形になっており、尻の部分を白い毛皮で覆う。神僧として舞を披露する際はこれに加えて頭にも長布を被るはずだが、今日は非番のため省略するらしい。

鹿祭りの日は知狎が人に紛れて街を歩いているのだという。畏れ多くも知狎の足を踏んでしまったり、多少の非礼があっても見逃してもらえるようにと、毛皮の小物や化粧で鹿のふりをして出歩くのが東世共通の習わしだった。エルメが被っているのは食用の余りと思しき鹿皮を継ぎ合わせたものだが、ソンテが尻に着けている白い毛は人工のものだという。エルメはわずかに首を傾げた。

「本場の神僧なのに、ですか」

「これが本場の神僧の知恵よ。おれは年中使うから、水洗いできる頑丈な人工毛が一番良い。鹿の毛だろうかネズミの毛だろうが人工毛だろうが、知狎がこんな飾り一つで本当に騙されるわけないんだから。何でもいいんだ、何でも」

「元も子もないですね」

ソンテとエルメは互いの毛皮を撫でたりつまんだりしながら迎賓舎を出ると、正門のある方角を向いて横並びになった。ソンテに促され、エルメは首から取り出した杖で自分の左手をパシパシと叩く。

「ニエ、ニエ、ニエ」

エルメにとって最も得意な呪号を唱えながら、左手でソンテの左手首を強く掴んだ。太い糸で自分の左手をソンテの腕にしっかりと縫い付けるさまを想像しながら、さらに数回杖で叩く。

「いけるか」

「はい、大丈夫です」

エルメの答えに頷き、ソンテは呼吸を整えるようにしながらすっと脚を開いた。

「ハイ」

まるで未だ寝ぼけている魂を揺り起こすように一度、高らかに呪号を唱える。東世で最も古く、現存する他国の呪号の原型ともいわれる黒の国の呪号は、さっぱりとして小気味良い、なんとも明快な響きである。もう一度、今度は囁くように小さく呪号を唱えると、ソンテは踊るように右半身を大きくしならせた。そのまま一歩、まるで体重を一切失ったかのようにふわりと無音で跳躍する。エルメの体もソンテに引っ張られ、地面を蹴ってもいないのに足が浮き上がった。冷たくもなければ強くも弱くもない、風のような何かが肌の表面を流れている気がするが、不思議と不快ではない。次の一瞬、底なしのどこかへ落下していくような感覚に襲われ、エルメは反射的に目を瞑ったが、すぐにとんと足が着いた。目を開けると、そこはもう藤京学院の敷地ではない。様々な食べ物の匂いが漂う賑やかな広場の端にぽつりと立った二人は、軽く一面を見まわした。

どこを向いても鹿皮を被った人々で溢れていて、見慣れない露店があちこちに立ち並んでいる。普段とはだいぶ様変わりしているが、エルメはこの場所に見覚えがあった。紫錦区との境界に近い、藤京西麓寺院の一角である。

「昨日は青龍へ行くっておっしゃってたのに。藤京でいいんですか?」

「うん。なんとなく」

そう言ってソンテは不自然な角度でエルメの方を向き、右手で埃でも払うような仕草をする。エルメの左手と自分の左腕を縫いつけているものを剥がそうとしているらしい。

「そんなんじゃ解けませんよ。青龍まで行くと思って強めにくっつけたんですから」

「くっつけるのがうまいな。これなら黒の国へも連れて行けそうだ」

エルメが杖を使って魔法を解くと、ソンテは気持ちよさそうに大きく伸びをした。

普通の人間ならば辻馬車やトンネルを使い一日以上かけて移動する距離を、ソンテはたった一歩で移動することができる。似たようなことができる者は少なからずいるが、よく見知っている場所や単調な一本道など、ごく狭い範囲に限られる場合が多い。誰から教わったわけでもなく使うことができるが、こうするのだと他者に教えるには複雑すぎて難しい、そのような魔法は他と区別して珠法(じゅほう)と呼ばれる。珠法は生まれてくるときに神から授かったものなのだという。そのためか、神僧は人々が重宝するような珍しい珠法を使う者が選ばれるのだ、というまことしやかな通説があるが、ソンテはそれについて

「神々は誰がどんな珠法を使うか、ご存知ないしご興味もない様子であそばされるから、おれは全然関係ないと思う」

との持論を語っている。

ともあれ、エルメがジュゼを待たずに街へ出る気になったのは、ソンテがこのような珠法の使い手であるからに他ならない。こうやって繁華街に出て年に一度しかない鹿祭りを楽しみながら、ときどきジュゼが帰っていないかと迎賓舎を覗きに戻ることもできる。

以前からことあるごとにソンテの珠法の恩恵に与かり、多くの者が「感謝してもしきれない」と言って憚らないのだが、エルメはかつて一度だけこの珠法を恐ろしいと感じたことがあった。あるとき、エルメはふと思いついたことをそのままソンテに尋ねたのである。

「移動の途中で法師から手を離したら、わたしはどうなるんですか?」

「それはわからない。けどきっと、二度とおまえの魂に出会えなくなるだろう、というのはわかる」

エルメにはそれがどんなに厄介なことであるのか想像もつかないが、ともあれ何よりも魂を大切に考える東世の民が真顔でそう言うのだ。ただ「死にますよ」と言われる方がよほど穏便である。

「いろんな匂いがするから腹が減ってきた。せっかくだし、まずは鹿肉をかじりたい」

「法師、昨日の晩からずっと食べてないんですか?」

「いや、フィオロン先生と遅くまで酒を飲んでたから……おまえが思っているよりは食べてると思う」

「どこにでもお酒の仲間がいらっしゃるんですね」

「いや、そういうわけでは。ただ酒が好きなやつはどこででも酒を飲むから、そばに仲間がいると自然と集まってしまう。虫のような……なんかそういう習性……」

ソンテはなぜか気難しそうな表情で顎に手をやる。もしかすると、ソンテにもフィオロンにも、エルメには計り知れない何かしらの苦悩があるのかもしれなかったが、今はそれを思い遣っているときではない。

「わたしも腹が減りました。ほら、鹿のシチューならそこで売ってますよ。わたしは別のが食べたいのでちょっと探してきます」

「待てエルメ、二人いるからには効率よく探す。だが鹿肉の優先順位は遵守しろ」

「はい大師。炙り、焼き、煮込み、挽き、菓子ですね」

「ムウ。炙り、焼き、煮込み、挽き、菓子。ではここで一旦解散する。入手したものは逐一知らせるように」

「逐一お知らせします」

そう答えると、もう目の前にソンテはいなかった。例の珠法を使ったのかもしれないが、元々体を動かすのが得意な人間であるから、人の波を器用に縫って走り去っただけかもしれない。一人残されたエルメは、少し辺りを見まわしてから、適当な方向へ歩き始めた。

「ジュゼ法師の分も買っておこうかなぁ」

不意に小さくはない独り言が口から出てしまい、エルメは咄嗟に口を押さえた。周りは賑やかだし、誰も気に留めないのだから好きなだけ独りで喋っていて構わないのだが、癖なのである。

ジュゼのことだから、おそらくたまたま到着が遅れてしまっているだけだろう。今日中に帰ってこないということはないはずだ。しかし、帰ってきた直後のジュゼはひどく疲弊しているだろうし、きっと腹を空かせているに違いない。

「長い仕事から帰って来ると、無性に鹿が食いたくなる」

何年も前だったが、ジュゼが以前そう言っていたのをエルメは覚えていた。ジュゼは幼い頃から鹿肉の臭みを嫌い、カレーなどの煮込み料理にして食べるのが好きなのだという。それなのに、疲れているときだけは不思議とただ焼いただけの鹿肉の塊が恋しくなるらしい。

ジュゼは今、どんなに疲れているだろう。たった一人だけで『ここ』を長く離れるのは、魂がすり減るほど過酷で辛いことなのに。エルメには想像しきれない苦しさや恐ろしさが一体どんなにあるだろうかと、考えるだけで胸が痛んだ。

だからと言って、待ち構えてジュゼを出迎えたところで、エルメにはきっと何もできないだろう。ジュゼにどうしようもできないことは、エルメにはますますどうしようもない。身体も魂も、きちんと休めることは自分一人にしかできない、と、かつて理天学院で言われたことがある。「自分の身体は自分で休めるものであり、誰かが代わりに休ませてくれることはない」という話でもあり「傍についているよりも、いないほうが役に立つこともある」という話でもあった。

人を労わる気持ちは誰にでもあるものだが、誰もがそれに救われるとは限らない。世話を焼きたいなら上手くやれ、ということだろう。しかしながら、自分の周りにいる人々は自分たち姉弟を助けてくれるのがいつも上手い、とも思う。押し付けがましいお節介に困り果てたという記憶はあまりない。放って置かれた記憶ならいくらでもあるのだが、かといってそれが寂しいとも感じなかった。面と向かって構われずとも、誰かが常にエルメのことを気に留めている。あるいはエルメたちにのために何事かしているらしい、と、幼いながらに理解していたのである。今思えば、案外そうでもなかったのかもしれないが、少なくともエルメの方は、彼らが自分のことを大切に思ってくれているという確信のようなものを抱いていた。寂しさを感じにくかったのは「想われている」と信頼していたからである。だから今や、一人きりでいる時に「今頃誰かに心配をさせてしまっているな」などと都合良く考えられるまでに成長したのだ。

「ぼくたちは自分勝手なことしかしていないのに、それを優しいと思うなんてエルメのほうが優しいみたい」

昔、ユノンが眉尻を下げて困ったように笑いながらそう言っていたのを思い出す。そうか、別に自分を思い遣ってしてくれたわけではなかったのか、と当時は目から鱗が落ちたものだったが、その頃にはもう、それはそれで良いと思えるようになっていた。自分か弟か、きっとどちらかが「これからもずっと先生の好きにしてていいよ」と言ったと思う。

 

『ムウムウ、藤京学院の皆さま、お元気ですか。』

 

『ぼくたちはいつも通りです。だから報せなどはないのですが、研究士たちへ流れ星を食べさせてやりたくなったので送ります。辛かったことも、疲れて嫌な気分になったことも、全部忘れて、流れ星がこんなに余ってしまってどうしよう、という悩みで彼らの頭が一杯になってしまえばいいと思って、みんなで分けても必ず余るくらい大きな流れ星にしました。』

 

『明日は鹿祭りですが、ぼくとシャート先生は理天学院にいます。二人でもっと大きな流れ星を作って遊ぼうと思っているので、近くにいらしたらぜひ食べていってください。今年はエルメもメルもいないので少し寂しく感じますが、ぼくたちの流れ星が食べられないくらい、お腹いっぱいで帰ってきてくれたら嬉しいです。』

 

『それでは良い休日を。』

 

歩きながらジュゼのことを案じているうちに、エルメは自然と昨日食べた流れ星のことを思い出していた。「理天学院から来た」というよりも「ユノン先生が勝手によこした」流れ星である。フィオロンの言葉通り、本当に要件らしい要件は書かれていなかった。いつもの平和で、暢気で、独り言のようなただの『挨拶』だけで、なんとも牧歌的と謳われる理天らしい。

立場は異なるが、理天の皆がエルメたち姉弟を想う気持ちと、エルメが今ジュゼに抱いている気持ちは似ているのかもしれない。

「お腹いっぱいで帰ってきてくれたら、か……」

エルメは何度か口の中でユノンの言葉を反芻してみる。そして、やはり鹿肉は三人分買うことにしよう、と心の中で決心した。

 

 

後編へ続く

「東冥の讃歌」について

作品を読んでいただきありがとうございます。興味を持っていただけただけでも本当に嬉しいです。

順番が前後してしまいましたが、こちらの記事にて当ブログの説明をさせていただきます。

 

「東冥の讃歌」は、東世と呼ばれる異世界を中心に、少年少女が世界の謎を追求するため旅をするファンタジー作品を指します。

このあらすじは「東冥の讃歌」本編のもので、本編の構想は現在コンペに応募中のため、ブログ内では公開を控えています。今のところ、審査が終了した後に少しずつ本編もアップしていく考えですが、まだ未定です。

ブログ内で公開している短編小説は、コンペの規定に反することがないように、本筋とは関係ないところだけを拾ったサイドストーリーとなっています。造語や創作設定に対していちいち説明がないのは、文章をスムーズにしたいからという理由もありますが、もともと本編ありきで「いずれは本編のほうで順を追って書くから」「応募した分にはもう書いてあるから」という考えに基づいているためです。

このサイドストーリーは、いつか本格的に本編を手がける前に脇役たちの設定を練り、彼らがどんなふうに動き、何を考えるのかを知るための試作品でもあります。そのため今後はキャラクターの性格がぶれていったり、ちょっとした設定の変更や、辻褄が合わないことも出てくるかもしれません。

それらも含め、何かと読みづらい作品ばかりですが、最新の彼らが最も彼ららしいという解釈で、温かく見守っていただければ幸いです。

どうぞゆっくりと、気長にお楽しみください。

【解説】休日、北部街道にて

・東世(とうぜ)とは

 

東の青の国、南の朱の国、西の白の国、北の黒の国で構成される広大な大陸世界であり、物語の舞台。歴史的な名残から四つの国に分かれてはいるものの、今は統治者もなく、国家としては成り立っていない。

寺院と学院が要の機関として機能しており、個人の手に負えない困りごとがある際はどちらかを頼る。海はあるが太陽と月がなく、昼と夜は神によって分けられる。

東世では、魂を持つものは必ず魔法を使うことができるとされている。目に見える神の存在があるため、独自の宗教観と文化を育んできた。白の国の最西部は桃源山脈と呼ばれ、険しい山々が連なっているが、それが彼らにとっての異世界と東世を隔てる壁の役割をしている。

 

 

・朋人(ゆうじん)/ お友達、知り合い、友達の友達、きょうだいの友達、友達の両親、両親の知り合い、と、知らない人でなければどんな人にでも使える言葉。「仲の良い朋人」と言うことはあるが「友達」に限定するような言葉はない。

 

・北部街道(ほくぶかいどう)/ 青の国の北部にある街道。理天区、紫錦区、藤京区をつなぐ。紫錦区と藤京区の境界で、青龍区へ伸びる南北街道と交わる。

 

・珠銭(じゅせん)/ お金としての価値がある小さい珠。様々な色があるが、価値の程度は変わらない。キャッシュレス社会であるため、珠銭は子どものお小遣いのような印象がある。

 

・紫錦黒海学院(しきんこくかいがくいん)/ 紫錦区の北西部にある比較的新しい学院。北部に点在する漁村の人々のために作られたが、近くに大きな街があり意外と都会的である。「黒海」や「黒海学院」と呼ばれることが多い。ちなみに「黒海」と呼ばれる海は存在しない。

 

・紫錦区(しきんく)/ 青の国の地名で、都がある青龍区の北東。北部にも南東部にも海がある。青の国の中心にあたるため交通網が発達している。昔から華やかな雰囲気の街が多い。

 

・藤京区(とうけいく)/ 青の国の東部。東世の東の果ての地でもある。地形的に孤立しているためやや独特な雰囲気の文化圏。青の国において、他国では青龍の都の次に有名な土地である。そのため地理的な問題をものともせず、藤京には都会的な街々が築かれた。古来から藤京の東には死者の国に通じる道があるとされている。

 

・理天区(りてんく)/ 青の国の西部。山や谷が多い地形で、稲作がおこなわれていない。青の国は都会的な街が多いのだが、ここだけはとんでもない田舎のまま、新たな畑以外は何も開発されていない。他国の人が青の国に牧歌的な田舎のイメージを抱く元凶だと他の街の人々が笑い話にするほどであるが、理想郷と呼ばれ愛される土地でもある。物語の要である理天学院は理天の西。

 

・黒の国(くろのくに)/ 東世の北部に位置する国。現在の東世の中心であり、朱の国との境付近にある玄武の都は主都と呼ばれ、現在は他の国からも多くの人々が訪れ賑わう大都市である。玄武区以外の土地では、古くから小麦作りが盛ん。

 

・玄武大学(げんぶだいがく)/ 現在の東世の主都にある大学であるため、黒の国以外の学生からも人気が高い。「進学に迷ったら玄武へ行け」という風潮がある。

 

・青龍区(せいりゅうく)/ 青の国の都、青龍を要する地。面積は大きくないが、青の国では珍しい平野地帯のため、古くから多くの人が集まり栄えてきた。

 

・杖 / 魔法の杖だが、体内から取り出すだけあって人骨によく似ている。杖がなくても魔法は使えるが、あった方が便利。代用品を使うこともあるが、どちらにせよ繊細な魔法を使う際には必需品。

 

・首から杖を / 東世では首の後ろに道具を収納したり、首の後ろから摩訶不思議なものを出したりする。魔法使いの核である魂は顔の内側にあると考えられ、魂に近い首まわりは強い魔力に溢れているイメージがあるらしい。首以外からも杖は出せるが、多くの人は首から出すことに慣れているので別の方法を使うことは稀である。

 

・シャンフォータン / 漢字をあてると「育快改」となる。東世の魔法使いの呪文はとても種類が少ない。「生活が便利でより良くなりますように」という願いを込めた魔法はすべてこの呪文を使用するため、毎日唱える機会がある。

 

・藤京西麓寺院(とうけいせいろくじいん)/ 「三角のお山」の麓にある寺院。街道沿いなので、サービスエリアのように様々な食べ物や飲み物を提供している。街道がこの寺院を貫いているのは、地形的にそれが作りやすそう・便利そうだったから。

 

・藤京学院(とうけいがくいん)/ 藤京で最も古い学院のためこのような名称だが、藤京は人口が多いので他にも学院はいくつもある。

 

・帰路(キロ)/ 十帰路は5キロメートル。東世の人は「行ったら帰ってくる」という考え方なので必ず往復の距離で数える。あまり使われないが片道の単位は「ゴーン」であり、5ゴーンは5キロメートルとなる。

 

・ムウ / 感嘆詞。学院では使用頻度が非常に高い。「よきかな」に近いニュアンスで、美味しいものを食べた時と人を褒めるときによく使う。挨拶の言葉「ムウムウ」が起源である。

 

・夏学生(かがくせい)春学生(しゅんがくせい)/ 基本的には五歳から六歳は春学程を、七歳から十五歳は夏学程を学ぶことになっているが、生まれた月や個人の能力、希望によってはその限りではない。春学生は長時間着席する練習程度のことしかしないが、夏学生は勉学だけでなく、生活に必要なことを幅広く学ぶ。年度始めという言葉はないが、一月始まりである。

 

・アヤ、アヤヤーなど / 感嘆詞。日本語と中国語で言う「あなや」「アイヤー」両方のニュアンスで使える。

 

・白虎の都(びゃっこのみやこ)/ 白の国の都で東世最大の港町。東世で唯一貿易をおこなっている。知的なイメージのある大都会。

 

・呪号(じゅごう)/ 呪文に分類されるが、かけ声に近い。青の国では農作業や網漁の際に大きな魔法を使うことが多かったため、呪号も大きな声で叫びやすいものへ変化していった。白の国の「ニエ」という呪号は、漢字をあてると「魄沈」となる。大きな声で発音しづらいため、玄武体術などには向かないとされる一方「集中しやすくて合理的」とも言われており「普段は自国の呪号だが、繊細な魔法を使うときはニエを使う」というニエユーザーも存在する。

 

・西世(せいぜ)/ サイゼではない。東世にとっては異世界だが、そうは言っても地理的に遠すぎるわけでもなく、ずいぶんと昔から交流があるらしい。少なくとも、東世の各大学には、西世をはじめとした異世界の人と話をすることができる道具がある。古来より白虎の都には西世の貨物船が着くため、白の国の人々は西世から様々な影響を受けてきた。

西世が東世と最も異なるのは、知狎に当たる存在の神がまったくべつの種族であること。東世の人々の魂は知狎が司るが、西世の人々の魂はそのべつの神々に管理されている。魂の所属は永遠に変わることがなく、それゆえに互いに交わることのない「異世界」という考えになった。

ちなみに西世の言葉で東世を指すときは「アルカディア」と呼ぶ。西世は「ユートピア」だという。東世からは遠いが、西世と陸続きの異世界「北世(ほくぜ)」と「南世(なんぜ)」もある。

 

・白虎大学(びゃっこだいがく)/ 東世にある四つの大学の中で最も卒業が難しいとされる難関大学。そのため他国から入学を希望する学生が多く、互いの知識や情報交換には最適の場。いわゆる教授、助教授のことは「老師」と呼ぶ。大学の教壇に立つことを目指して老師のもとで学ぶ助手などは「先生」と呼ばれ、区別される。

 

・ニン / 最もニュアンスの近い日本語は「えっへん!」であり、ムウと褒められたらニンと答える。どんな場面、どんな褒め言葉にもニンという一言の返答でよい。「えっへん」と同様「嬉しいことを言ってくれてありがとう」という意味は含まず「こんなに褒められる自分はなんて素晴らしいのだろう」の方が近い。

 

・朱の国(しゅのくに)/ 東世南部の広大な国。地形的に恵まれており、古来から他国に食糧などを分け与える役割を担うことが多々あった。かつては朱の国を中心に王や皇帝が立ったこともあるが、そのたびクーデターや革命も起きるので、現在は国家でなくなっている。稲作が特に盛んだが、小麦も作っている。

 

・雨の日/ 一般的に、雨具は帽子の形である。傘はファッション小物だと思われている。

 

・鹿祭り(しかまつり)/ 四月四日の大祭。由来は、この頃から鹿肉が美味しくなるため。

 

・知狎(ちこう)/ 東世の神々の総称であり、種族名でもある。上半身は人のようだが、下半身は鹿。そのため東世では鹿を神格化することがある。

毛並みの色と髪の色が同じで、体の大きさや風貌、話し方や態度など、人間と同じように個体差があるが、彼らの意思は必ず一致する。普段は知狎苑(ちこうえん)におり、僧尽の中から神僧(しんそう)という職につく人間を自ら選んで伝令役のように使う。知狎苑は各国に一箇所ずつ、東世に四つ存在し、いずれも人々の喧騒とはかけ離れた山合いにある。

東世は国家ではないため首都のようなものが存在しないが、最も神聖な場所としては黒の国の知狎苑・北苑(ほくえん)を挙げることができる。人々は北苑の知狎が中心核なのだろうと考えているが、実際は神のことなのでよくわからない。北苑を要する黒の国・玄武の都は「主都」と呼ばれ、多くの人が集まる。中心となる知狎苑が二千年ごとに変わるため、それに伴って主都も変わる。

 

・僧尽(そうじん)/ 寺院に所属して働く人の総称。神と人々とを繋ぐパイプ的な役割を果たし、困り事があればまずは寺院で相談する。

 

・おおよそ見当がつくのでは / このブログ内の小説を読んだだけでは絶対に見当がつかないので申し訳ない。未登場の本編の主人公にまつわること。

 

・青龍大学(せいりゅうだいがく)/ 老師にも学生にも青の国出身者が多く、地元志向が強い。

 

・トンネル / 瞬間移動ができる通路のようなもの。短い距離を移動するトンネルは自由に使えることが多いが、メンテナンス上の問題があり、田舎には数少ない。

 

・南北街道(なんぼくかいどう)/ 青の国の街道。藤京西麓寺院を始点とし、紫錦区の山道を下って青龍大学へ至る。

 

・星読み(ほしよみ)/ 新聞を読む感覚で「星を読む」と言う。満点の星空は東世のSNS的ツールで、それゆえ夜はだいたい天気が良い。星一つ一つが情報記事であり、人並みの魔力があれば自分の探している情報を瞬時に見つけて読むことができる。「詳しくはウェブで」のように「詳細は本日の南の空をご覧ください」と言う広告も存在する。魔力を使って読むため、視力は関係ない。星は毎日人が揚げているので、もちろん北極星や星座のようなものはない。星を使って何か公開したい人は星売りに相談する。

 

・遊びで作った花壇 / 西麓寺院の中に北部街道を通した理由に似ており、たくさん花を植えたかったので玄関の前も全部花壇にしてしまったのである。「跨げばいい」という考えはユッセの性格ではなく、東世的な感覚。ちょっと大変そう、不便そうに感じるが、彼らは魔法使いなので許容範囲がとても広く、おおらかで大胆な性質なのである。

 

【小説】休日、北部街道にて

 

珍しいことに、その日ユッセは朋人(ゆうじん)の妹と閑散とした北部街道を歩いていた。

珠銭(じゅせん)をやるから妹を見ていてほしい、と頼まれたのが今朝のことである。特に何かあったわけではないが、急に独りで街を歩きたい気分になったのだそうだ。

ライヒは兄そっくりの整った顔立ちをした快活な少女で、ユッセにとっては確かに朋人の妹なのだが、教え子とも言える。この春から彼女の兄もユッセも、紫錦黒海学院(しきんこくかいがくいん)の教職として名を連ねているためだ。とはいえ、今のところ直接彼らが教育に携わることはない。

青の国、青龍の都の北東に位置する紫錦区は、稲作が可能な平地が多かったため古来より豊かであった。青の国はもともと他国と比べて面積が小さいのだが、東隣の藤京区(とうけいく)は人の住める土地が本当にわずかで、生計を立てるのに自然と海を頼るようになった。一方、西隣の理天区(りてんく)は、広さはあっても山と谷ばかりであり、今でも小さな畑が耕される以外はさっぱり開発が進まない。両隣の理天と藤京に米やら小麦やらを売り紫錦は潤っていたわけだが、長らく解決しない悩みが一つあった。土質が優れないのである。

理天区の畑に使われる山の土は優秀だ。農作物を肥やすのに望ましい栄養を何かしら含んでおり、しかも水との相性が良いので扱いやすい。もちろん場所によって性質は異なるが、どれも生命力を感じる強い土だ。一方、紫錦の土はどうにも扱いづらい。悪い点について一概には言えないが、どうやら北部の海に近いところほど塩分を含んでいるらしい。紫錦の土が気難しいことは随分昔からわかっていたようだ。南部の「使える土地」は何百年も前から稲と小麦を育てるのに充てているが、北部は充分な広さの平地があるにも関わらず、現在に至るまでほとんど手つかずのままである。現在から四十年ほど前、その界隈に黒海学院が建てられた。学院を一つ用意するには広大な土地が必要だ。敷地内に教師のための自宅や子どもの住む寮館、資料館、医院などが併設されるためである。が、それでも土地が余った。そして近年、余っている土地が勿体ない、なんとか利用できるようにしたい、という声が、どこからともなく上がったらしい。かくして、紫錦北部を農地として活用するため、学院が一念発起とばかりに試験的な畑を作る運びとなった。その畑作りのため、わざわざ黒の国の玄武大学から召集されたのがユッセである。

ユッセはもともと青の国青龍区の出身だ。今のところ紫錦区での暮らしに不満はないし、学院勤めも悪くないと思っている。細々とした記録を取りながら、時間をかけて少しずつ畑を育てるのだって楽しい。自分と同じ時期にライヒを連れて赴任してきた朋人ともすぐに意気投合し、仲良くやっている。我ながら、実に充実した生活を送っていると思う。

ただ、進学のために黒の国へ移り住んだとき、ユッセは漠然と「青の国にはもう戻らないだろう」と思っていたのだった。うっすらとではあるが、戻るまいという決意すらあった。しかし、玄武大学に在学していたのはせいぜい4、5年である。案外すぐに戻ってきてしまった。それがなんだか不思議で、特にこうしてのんびりと過ごす日は、夢でも見ているような妙な心地になることがある。

「ねえユッセ先生、あっちに行ったら海かな?」

「そうだね。ぼくとライヒはあの三角のお山の方に向かってるから、ここから左にずっと歩いていったら海だよ」

朋人とそっくり同じ顔をしたライヒから先生と呼ばれるのは落ち着かないのだが、今のところは好きにさせている。ユッセとライヒは十歳違うから、ライヒは今年十歳になったはずだ。もう少し大きくなったら、呼び方についてやんわりと掛け合おうと決めている。

ライヒ、どこに行きたいの?」

「どこでもいいの。ユッセ先生の行きたいところでもいいよ」

なかなか自由奔放だな、と思いながら、ユッセは曖昧に頷いた。

ライヒの兄はもともと面倒見の良い性格だが、歳の離れた妹のことは特に可愛いようで、休みの日に彼女を一人にするのが忍びないのだという。とはいえ学院の寮館には誰かしらいるはずで、一人にはなりっこないのだが、そういう話ではないのだろう。おそらくライヒのために、わざわざ時間を割いてくれる誰かが必要だと考えているのだ。だから一緒にいてほしいと頼まれたものの、特に何をしろとまでは言われなかったのではないか。ユッセは勝手にそう推察している。

ライヒの両親は理天で畑をやっているらしい。離れて暮らしているものの、家族仲は良いようで、この兄妹は頻繁に里帰りをしている。なので、早々にライヒを持て余してしまったユッセは、彼らの両親のところへ連れて行ってしまうかと考えたのだが、それを提案したら「おうちは兄ちゃんと行くからいい」と却下されてしまった。

ライヒにそう言われたので、なんとなく理天とは反対方向である藤京へ至る道を選び、こうして二人ぶらぶらと歩いているのである。しかし、山育ちのライヒは見かけよりも足腰が強いようだ。坂も砂利も厭うことなくいくらでも進んで行こうとする。歩くことが好きなのかもしれない。なので、ライヒより先にユッセのほうが、このあてのない散歩に飽きてしまった。変わり映えのない田舎の風景も軽い運動も、あまり楽しめない質なのである。

そこでユッセは、ライヒがぼんやりしている隙をついて、首から杖を取り出すことにした。杖を軽く振っては素早く仕舞う、というのを先ほどから密かに繰り返している。四、五回はそうしただろうか。ようやくライヒが怪訝な顔をした。ぴたりと立ち止まり、無言で少しばかり思案したあと、閃いたと言わんばかりにユッセを仰ぎ見た。

「魔法使った!?」

「あ、わかった?」

「いつ?すごい!もう藤京なの?わたしたち藤京にいる?」

「この辺はまだ紫錦だけど、結構飛ばしたからもうそろそろかなぁ」

すっかり興奮したらしいライヒは、右手を首の後ろに回して「ハヤ!ハーヤ!」と数回叫ぶ。が、何も起きない。

ライヒ、もう杖出るの?」

「出るよ。でも、まだいつもは出ない」

ユッセが初めて自分の首から「魔法の杖」を取り出せたのは七歳のときだ。当時通っていた学院の中ではかなり早い方だったが、自分の意思のまま自在に取り出せるようになるまでは、結局一年以上かかった覚えがある。

「今日は出ないみたい」

ライヒがいじけるように俯いたので、ユッセはその頭の上に、ぽんと軽く手を乗せた。

「焦らなくても、大人になれば勝手に出るようになるよ」

「ううん、うん……わかってるんだけど……」

こんなにも困難なことが、本当にできるようになるものなのか、と言いたげな顔だ。

「赤ちゃんと同じだ。みんな生まれてすぐには歩けないけど、二、三年経ったら自然と歩けるようになってる。杖もそんなもんだよ」

「じゃあ頑張って杖を出す練習しても、意味がないの?」

「うーん……まあ、報われないことの方が多いかもしれないけど、たまに報われる人もいる」

杖は一人前の魔法使いの象徴だ。東世では初潮に例えて説明するのが常套手段なのだが、せっかくの休みに先生らしいことを言ってやるのも面倒くさい。だいたい、学院に住まって皆から先生と呼ばれてはいるが、毎日朝から夕まで畑ばかりに構っているので、教えることは専門外である。ユッセは細かい説明を省いて話を逸らすことにした。

「このまま藤京に行く?」

「行く!魔法で連れてって!」

慣れたもので、ライヒはユッセの左腕をがっしりと掴んでそうねだる。ユッセは杖を掌で数回転がし持ち直した。

「シャンフォータン」

軽く杖を振りながらお馴染みの呪文を唱える。すると、雲が風に流されるように、周囲の風景が溶けて移ろいだ。二人は相変わらず野暮ったい野道に立っていたが、よく見れば、先ほどまではなかった低い木の柵が、人の通る道とその外側とを隔てている。少し先の方には、木々の他に大小様々な建物の影が見えた。寺院である。この北部街道は一度、藤京西麓寺院(とうけいせいろくじいん)の敷地を貫くのだ。寺院を抜けてさらに進むと、いくつかの大きな繁華街の脇を通りながら、藤京でもっとも古い学院である藤京学院に終着する。

今の瞬き一回分の時間で、ユッセとライヒは十帰路(キロ)ほどを移動した。

「ここ藤京の寺院?」

「うん。この寺院がちょうど紫錦と藤京の境目になってるんだよ」

この辺りまで来ると、ユッセにとっては知らない道ではないが詳しい道でもない。さすがに藤京学院まで行ってみる気にはなれなかったので、特に目的は決めず、慎重にじりじりと進むつもりで魔法を使ったら、たまたまここで止まってしまったのだった。だがライヒにはどうでもいいことだ。さっと身軽に柵を乗り越えると、楽しそうに踊り出してしまった。通常、寺院内の広場や空き地は公園として扱われるため、柵も子どもが安全に乗り越えられる高さとなっている。ユッセもライヒに続き、低い柵を跨いだ。

「ユッセ先生、さっきまでは呪文使ってなかったよね」

「だって呪文使ったらライヒにばれちゃうもん」

「なんでわたしにばれるとダメなの?」

「ぼくが面白いから。ライヒに気づかれないようにちょっとずつ進んで、どこまで行けるかなって遊んでたんだ」

ユッセの答えにけたけたと笑ってライヒは飛び跳ねた。どうやら機嫌が良いらしい。踊ったり駆け回ったりしながら、青の国の民謡を歌い始めた。身体が小さいせいもあるのだろうが、ライヒは同年代の女の子よりもやや幼気な印象がある。なのに妙に歌が上手い。声だけが大人びて感じる。いまライヒが歌っているのは、ユッセにはあまり馴染みのない歌だった。ところどころ聞き覚えのある旋律ではあるが、理天の歌なのかもしれない。

「ムーウ」

ときどき合いの手を入れるように叫んだが、歌うことに夢中のライヒは褒められようが放っておかれようが、あまり気にしていないようだった。

「ムウ!」

突然、ユッセの横で子どもの声が響く。近所の春学生(しゅんがくせい)だろうか。ユッセには見覚えのない顔だ。彼は目を輝かせて、ぱたぱたとライヒのそばへ駆けていく。歌詞はまったくわからないようだったが、彼はライヒの歌声を追いかけるように一緒に歌い出した。それに気づいたライヒは、彼に合わせて少し声の調子を変える。どう変わったのかと聞かれるとうまく説明できないのだが、ユッセには、先程までライヒの気分次第で発せられる暴れ馬のようだった声を、突然現れた彼が隣を並走できるよう整えたような感じがしたのだ。

「あれは青の国の歌ですか?それとも紫錦の?」

静かに声をかけられてユッセが振り返ると、ほっそりとした若い男性が立っていた。ユッセと同じ年頃か、少し年上かもしれない。衣服も表情も少しくたびれた様子だが、興味深そうに子どもたちを観察している。

「はあ、青の国の古い歌です。といっても実はぼくもあまり知らないんですが……。山羊がどうとか言ってますし、理天の歌じゃないでしょうか。理天育ちの子なので」

「うちと同じようなご兄妹に見えたんですけど、違いました?」

「兄妹ではないですけど、まあほとんど兄妹みたいなものです」

彼は子どもたちからユッセへ視線を移し、なぜかユッセの顔をじっと見つめて「アヤ」と呟いてから、控えめに問うた。

「わたしと弟は白の国の者でして。あなたは青の国の方?」

「えっ……いや、はい、ぼくは青龍育ちで……今は紫錦で働いてますけど」

今日初めて会ったはずの彼が、なぜ不思議そうにユッセを見つめたのか、正直なところ、思い当たる理由がなくもない。が、ユッセには何もやましいことはないのだ。自分にそう言い聞かせながら、なんでもないふうを装ってライヒの方を向いた。

「ぼくも白虎の都には数回行ったことがあるんですけど、節というか、歌の調子が国によって少し違うみたいですね」

「ええ。各国の呪号の違いと似ています。青の国の歌は、広いところで声を張り上げて歌うのが心地いいようにできているのでしょうね」

呪号は魔法使いの「掛け声」だ。時代とともに変化するものの、ここ数百年の青の国の呪号は「ハヤ」で、漢字をあてると「魄奮」となる。自らの魂を鼓舞するような力強い響きの呪号だ。青の国で大きな魔法を使う機会といえば、網漁や農業、山岳を切り拓くときが大半で、そのため呪号も、何人かが集まって大声で叫ぶのに適した音となった。

一方、白の国の呪号である「ニエ」はかなり特殊である。白の国は東世の西端に位置するため、古来から東世の西隣の世界「西世(せいぜ)」の影響を多分に受けてきた。そのため他の三国の呪号とはまったく似ておらず、大きな声で発音しづらいという特徴も他と異なっている。

「あ、ほら。この歌。いかにも白の国らしいでしょう。流行りなんですよ」

彼の弟は、か弱そうな見た目に反して声はしっかりと出ているので、初めて耳にする歌だが歌詞がよく聞き取れた。穏やかな表情で囁くように歌っている。歌い手によって語りかけるような、とも、捲したてるような、とも表現できそうだ。拍のことなどはよくわからないが、ユッセは小気味良い旋律だな、と感じた。

「色っぽい歌ですね」

「意味なんかわかってないんでしょうけど、おちびにしちゃ趣味が良いわ」

彼は苦笑いのような表情で弟を見つめ、ため息を吐きながらその場に腰を下ろした。ちょうど良い遊び相手が見つかったので、弟のことはしばらく任せて、その間に一休みする算段に見える。

「ちょっと、タタン!お姉さんはそのお歌知らないのよ!あんたがちゃんと教えてあげないと一緒に遊んでもらえないわよ!」

兄から大きな声で叱られたにも関わらず、彼の弟は笑顔のまま、のんびりとこちらに両腕を振って見せた。

「兄ちゃんも歌うでしょ!」

「兄ちゃんはもう歌わない!」

またピシャリと声をはりあげると、彼は呼吸を整えてから首の後ろに手をやる。杖を出すときの仕草だが、彼が取り出したのは杖ではなく紫色の包みだった。足を崩し、あぐらの姿勢になって足の上で包みを広げる。中身は弁当だったようで、大きめの餅が六個ほど見えた。ユッセは、多いな、と思ったが、口には出さずに見ていると、彼から餅を二つ差し出された。

「多いわ。あげる」

 

 

  *  *  *

 

 

彼は名をジジと名乗った。弟のタタンは今年七歳になるらしい。ジジは白虎大学に在籍したまま学院でも働いており、今回は用事があって藤京学院に数日滞在していたのだという。弁当はジジが用意したものではなく、藤京学院でお世話になった先生が持たせてくれたものだそうだ。用事自体はともかく、好奇心旺盛で落ち着きのない弟を連れて各所を巡るのは相当骨が折れたようで、ようやく帰れると思ったらどっと疲れが出た。藤京学院を出発してすぐではあったが、どうしても身体を休めたくてこの寺院に寄ったのだという。

「学院で小さい子に囲まれているときはこんなに疲れないんですけど、タタンと二人だとかえって疲れるの」

「ああ、ぼくも身に覚えがあります」

わわざわざ言わなかったが、今がまさにそうだ。

「なんとなく、何日も寮館へ置いておくのが可哀想な気がしたんですけど、でももう連れてこないわ。だいたい、寮館に置いておくのなんか何も可哀想なことじゃないのよ」

「それもそうですね。可哀想に感じる気持ちもわかりますけど」

「いつも、次は置いていくわって思うのに、いざ次の機会に直面するとやっぱり可哀想な気がして、結局また連れて行くんです」

「ああ、初めてじゃないんですか……」

ユッセは少しだけ笑った。

「ジジ先生はお優しいんですね。ぼくなんて昔から妹とそんなに親しくないので、お互いに好き勝手で、冷たいものです。一応死んだらわかるように連絡は取り合ってますけど、本当にそれくらいで」

「優しくても優しくなくても、ユッセ先生と妹さんのような関係が健全というものです。可哀想可哀想というのは都合の良い言い訳で、結局わたしが弟に依存しているようなものだから。本当、良くない執着ね。妹さんはもう大きいのでしょう?」

「はあ。歳が近いので」

「わたしもいずれは弟とそういう距離を取れるようになりたいわ」

ユッセは餅を口に含みながらもごもごとつぶやいた。

「あの、本当に、そんなふうに羨むようなものじゃないですよ。なんというか、妹も……用が済んだらさっさと帰っていきますし」

「でもユッセ先生は先ほどから、妹さんと仲が悪いとは一言も言わないじゃないですか」

「うーん。まあ、仲が悪いというほどではないんですけど」

「妹さんがお嫌い?」

「いえ、そんなことはないです」

昔は妹のことが嫌いだったような気がするのだが、自分の口からとっさに否定の言葉が出たことに、ユッセは少し驚いた。温かい餅を頬張りながら、ジジはユッセに微笑みかける。

「一人前の大人同士という感じがして、わたしは良いと思うわ」

「はあ」

なんと返事をしたものかとユッセが迷っていると、思わぬ助け船がやってきた。ライヒだった。タタンと二人であっちへ行ったりこっちへ行ったり、何やら忙しそうに遊んでいたのだが、雑草で花輪を編んでいたらしい。大きな花輪を恭しくユッセの頭の上に乗せた。

「ありがとう。立派なかんむり」

「ニン!」

胸を張るライヒの横で、タタンは下手くそな花輪を自分の頭上に乗せてにこにこ笑っている。

「かんむり?」

ジジは不思議そうな顔をした。

「これは理天で流行ってる遊びなんだそうです。ね、ライヒ

「うん。タタンにも小さいのを作るからね」

そう言いながら、ライヒはタタンの手を取り、またどこかへ走り去ってしまった。

「理天で?なんで?」

ユッセの頭に載せられた花輪をまじまじと見つめながら、ジジはしきりに首を傾げた。

「頭部を飾りつける習慣は朱の国以外には根付いていないのよ。どういう由来があるのかしら」

「ああ、そうですよね。帽子を禁止にしていた時代もあるくらいだし。珍しいですよね、こういうのは」

ユッセは花輪を手に取ってジジに手渡した。

朱の国以外では、雨の日と「鹿祭り」の日以外に帽子を被ることは珍しい。これは、東世の人々が神格化する鹿や、一部の知狎(ちこう)たちに角が生えているためである。今でこそ頭部の装飾は自由であるが、昔は人間が頭部を装飾することは畏れ多い、神を騙るような行為であるとして、各地でたびたび禁則とされてきた。その名残が現在も残っており、頭を大きく見せる髪型や装飾品は、反骨精神の強い朱の国でしか発展しなかったのだという。

「これは統治者のしるしなんだそうですよ」

「統治者?僧尽の類ではなく、君主のようなものを指すのかしら」

「あはは、話が早いです。君子、皇帝だったかな。ぼくはライヒの説明しか聞いていないので、どれほど正確かはわからないんですけど。立派な人だけが被ることを許されるかんむりで、これは王冠と呼ぶんだそうです。理天では好きな先生や自分にとって大切な子たちに、こういうのを被せて遊んでいたらしいですよ」

「王冠なんて聞き覚えがないものだけど。どうしてそんなものが急に流行ったのかしら」

ジジが独り言のようにつぶやいたが、やがて二人とも沈黙した。ユッセはまるで減る気配のない餅を齧りながら、少し目を伏せる。

「白虎大学からわざわざ青の国に、それも藤京学院に何度も滞在されるジジ先生でしたら、おおよそ見当がつくのでは」

ジジは一瞬だけ、ユッセを見定めるような目つきをしたが、すぐにその鋭い雰囲気を和らげ、こくりと頷いた。

「……それもそうね。ありがとう、面白い話が聞けてよかったわ。わたしもともと歴史の分野の人間で、風俗や民話の研究をやってたんです。近頃さっぱりだけど」

へえ、とユッセは楽しそうに声をあげた。

「じゃあ、ぼくと全然違う。ぼくは玄武大でしたけど、もし在学中にお会いしていても、話す機会なんてきっとなかったですね」

「ユッセ先生は何を学んでいらしたんです?」

「農業!あと土とか!それと石も少し!」

「そんなに大きな声で教えてくれなくてもいいのよ」

ジジが少し意地悪そうな顔でそう言うので、ユッセははっとして紅潮した。ジジは少しだけにやりと笑ったが、これ以上からかうつもりはないらしい。餅を口に咥えたまま、ちょっとお茶を貰ってくる、とどこかへ行ってしまった。

それにしても、ジジから分けてもらった餅は、なぜかずっと温かいままだ。何か魔法がかかっているのかもしれない。柔らかくなめらかで、とても美味しかった。

 

 

  *  *  *

 

 

ユッセはジジに、理天へ寄るのかと聞いたが、どこにも寄らずに帰るとのことだった。青龍大学から白虎大学へ抜ける「トンネル」を使う許可が下りているため、南北街道を通って青龍へ向かうという。人懐こいタタンはライヒと別れるのが寂しいようで、寺院を出て行く際に少しぐずったが、ライヒも別れ際には名残惜しそうな暗い顔をしていた。

北部街道を理天方面に歩くライヒの足取りは重く、来るときの半分程度の速度だ。まだ空は明るく、急ぐことはないのだが、ライヒを機嫌の悪いまま帰すのは避けたかった。朋人からは既に珠銭を受け取っている。タタンはライヒを大いに楽しませてくれたようだが、ユッセはというと、ライヒに何もしてやっていない。餅をひとつやったら美味しいと少し喜んだが、それもジジから分けて貰ったものをそのまま渡しただけに過ぎない。

ライヒ、元気出して」

ライヒの兄がよくやるように、ユッセはライヒの前髪を撫でた。

「そういえばね……」

「うん?」

しょぼくれた顔で俯いたまま、ライヒがポツポツと何かつぶやいている。よく聞こえなかったので、ユッセは地面に膝をついてライヒの顔を覗き込んだ。

「兄ちゃんが、言ってたんだけど」

「うん」

「兄ちゃんはできないけど、ユッセ先生はトランポリンできるって」

「ああぁ……トランポリンね」

「トランポリンしてみたい……」

悲しげに、しかし愛らしくおねだりをされてしまった。そのしおらしさも、わざとなのかそうでないのかまったく判別がつかないところが怖い。兄ならば分かる。ライヒの兄のアサンは、自分の美しさや逞しさ、人望の厚さ、さらには自分が人々から求められている理想像までよく理解しているので、それを利用しつつこうやってしたたかに自分の要求を通すことがある。多々、ある。要するにちゃっかりしているのだ。どうやら顔だけでなく、そんな要領のいいところまで兄に似てきたらしい。ライヒのはアサンのように計算ずくではないのかもしれないが、計算できるようになるのも時間の問題のように思えてならない。

「トランポリンかぁ〜。そっかぁ〜……」

「トランポリン」は西世の言葉だ。東世では、大きく跳躍しながらバッタのように進む魔法のことをそう呼ぶ。しかし、トランポリンは移動手段としてはそこまで一般的ではない。理由は簡単で、これをするととても疲れるのである。そのため、確かに魔力が弱い者はうまくトランポリンができないのだが、アサンができないと言ったのは多分嘘だ。おそらく、やってと言われないためにできないことにしているに違いない。大方、深く追及されるより先に「だけどできる人を知ってる」などと言って話の矛先をユッセに逸らしたのだろう。

「疲れるから」という理由だけで断るには、ユッセは珠銭を受け取り過ぎていた。他の子たちには言わないように、とライヒにきつく言い聞かせてから、ユッセは渋々彼女の小さな手を取る。爽快なほど大きな声で「ハヤ」と叫ぶのは、ずいぶん久しぶりのことだった。

 

 

  *  *  *

 

 

ジジがあのような中途半端な場所で休んでいたのは、タタンにトランポリンをせがまれたせいかもしれない。

アサンの家から自宅へ向かう短い道中で、ふとそんな考えがユッセの頭をよぎった。幼い弟に甘いところがありそうなジジならば、わりとありえそうな話だ。そういえば、最初に出会ったとき妙にくたびれて見えたのも、風に煽られ髪も衣服もぐちゃぐちゃに乱れていたからそう感じたのかもしれない。自分のことはあえて棚に上げるが、タタンに振り回されるジジの姿を想像すると、なんだかおかしい。彼らはもう家に着いたのだろうか。土地勘がないため、二人の帰る場所が白虎大学からどれほど遠いものなのか、ユッセにはわからない。

そういえば、今日はまだ星を読んでいなかった、と思い出し、星空を見上げてみる。しかし、日中の疲れからか、あまり星を読む気が起きず、億劫だ。今日は何もせずさっさと寝てしまおう、と決めて、ユッセはひょいと花壇を跨いだ。先日アサンと遊びで作った花壇である。自宅の周りをぐるりと取り囲む形になっているので、家の中に入るにはどこかを跨がなくてはならない。扉を開こうとして、ふと、足元に何かが落ちていることに気づいた。しゃがんでよく見てみると、どうやら花輪のようだ。落っこちていたわけではないようで、花と雑草で編んだかんむりがきちんと四つ重ねて置いてあった。ライヒが来たのだろうか。他の子かもしれないが、まあおそらくライヒだろう、などと思案しながら、ユッセはひとつずつ花かんむりを拾った。

「すごいねえ!ユッセ先生はきっと黒海学院で一番魔法が上手だね」

トランポリンですっかり上機嫌になったライヒがそんなことを言っていたのを思い出す。「何と言われようがこれ以上は出ない」と突っぱねてしまったが、案外純粋に褒めてくれていたのかもしれない。

かんむりは、誰にでもあげていいものではないのだそうだ。欲しいと思っても、それを作って被せてくれる誰かがいなければ、決して手に入るものではない。王冠は唯一無二の名君にしか被ることを赦されないものだから、そういう決まりなのだという。

ユッセは拾い上げた花かんむりを、四つ重ねたままそっと頭に載せてみた。鏡がないのでどうなっているのかは見えないが、なんだか恥ずかしい。草と土の匂いがして、明らかに雑草の塊だとわかっているのに、ユッセには不釣り合いな、とても立派なものを身につけているような気がする。こそばゆいが、ほんの少し嬉しいとも感じた。花の蜜がじわっと滲み出てくるような、わずかな喜びではあるが。

それにしても、ライヒが作ってくれたものをアサンに自慢しても仕方がない。これを誰かに自慢するとしたら、妹だろうか。昼間に珍しく彼女の話をしたせいか、一番最初に思い浮かんだのが妹の顔だった。いつも用が済むとすぐ帰ってしまうが、アサンは「大した用事がなくてもちょくちょく来るひとだ」と言う。言われてみれば、そうだろうか。確かにひと月に一度くらいは会っているが、それを多いとも少ないとも感じたことがなかった。そういえばもう半月以上は会っていないから、そろそろ妹が会いに来る頃合いかもしれない。彼女の仕事の都合はまったくわからないが、次の休みを待たずにここを訪れる可能性もある。

ユッセは丁寧に花かんむりを腕に通し、自宅の扉を開けた。これを並べて壁にかけたら綺麗だろうか。昼間に貰ったものと合わせて五つあるから、窓のない壁を飾るのにちょうど良いかもしれない。薄墨色の壁に吊るされた花かんむりを想像し、ああ、きっと悪くないはずだ、とユッセは確信した。

【解説】ユノン先生、赴任する

 

・東世(とうぜ)とは

東の青の国、南の朱の国、西の白の国、北の黒の国で構成される広大な大陸世界であり、物語の舞台。歴史的な名残から四つの国に分かれてはいるものの、今は統治者もなく、国家としては成り立っていない。

寺院と学院が要の機関として機能しており、個人の手に負えない困りごとがある際はどちらかを頼る。海はあるが太陽と月がなく、昼と夜は神によって分けられる。

東世では、魂を持つものは必ず魔法を使うことができるとされている。目に見える神の存在があるため、独自の宗教観と文化を育んできた。白の国の最西部は桃源山脈と呼ばれ、険しい山々が連なっているが、それが彼らにとっての異世界と東世を隔てる壁の役割をしている。



・珠珠の子(じゅじゅのこ)/ 単純に珠珠とも呼ぶ。東世では婚姻関係にあるカップルのことを伴伴(はんはん)と呼ぶが、様々な事情から子供に恵まれない伴伴は、まず寺院へ相談に行く。

この際、寺院で人々のために働く僧尽(そうじん)が神々と彼らのパイプの役割を果たす。「おまえたちの子どもは◯◯区の◯◯にいるだろう」といった神からの預言を賜ると、僧尽は書をしたため、伴伴へ授ける。その後は彼らが自ら子どもを探しに行く必要があるが、時折り知狎(ちこう)の書から飛び出す鹿の幻が、彼らを必ず導いてくれる。子どもが無事に伴伴の家にたどり着くのを見届けると、以降鹿の幻は出現しなくなる。


神によって選ばれるため、珠珠の子は必ず孤児とは限らない。もし知狎書を持った伴伴に自身の子の受け渡しを要求されれば、それは神の意志であるため逆らうことはできず、もし頑なに拒めば罪に問われる。一方で、珠珠の子の制度があるために「子を置き去りにしても死にはしない」と考え、わざと子どもを放置する親も少なからず存在するため、学院と寺院が連携して対策を考えている最中である。

・知狎(ちこう)/ 東世の神々の総称であり、種族名でもある。上半身は人のようだが、下半身は鹿。そのため東世では鹿を神格化することがある。毛並みの色と髪の色が同じで、体の大きさや風貌、話し方や態度など、人間と同じように個体差があるが、彼らの意思は必ず一致する。普段は知狎苑(ちこうえん)におり、僧尽の中から神僧(しんそう)という職につく人間を自ら選んで伝令役のように使う。知狎苑は各国に一箇所ずつ、東世に四つ存在し、いずれも人々の喧騒とはかけ離れた山合いにある。東世は国家ではないため首都のようなものが存在しないが、最も神聖な場所としては黒の国の知狎苑・北苑(ほくえん)を挙げることができる。人々は北苑の知狎が中心核なのだろうと考えているが、実際は神のことなのでよくわからない。北苑を要する黒の国・玄武の都は「主都」と呼ばれ、多くの人が集まる。中心となる知狎苑が二千年ごとに変わるため、それに伴って主都も変わる。ちなみに青の国の知狎苑は東苑(とうえん)であるが、理天学院が辺鄙なところに存在するため、学院からそう遠くない場所にある。

・藤京区(とうけいく)/ 青の国の東部。東世の東の果ての地でもある。地形的に孤立しているためやや独特な雰囲気の文化圏。青の国において、他国では青龍の都の次に有名な土地である。そのため地理的な問題をものともせず、藤京には都会的な街々が築かれた。古来から藤京の東には死者の国に通じる道があるとされている。

・理天区(りてんく)/ 青の国の西部。山や谷が多い地形で、稲作がおこなわれていない。青の国は都会的な街が多いのだが、ここだけはとんでもない田舎のまま、新たな畑以外は何も開発されていない。他国の人が青の国に牧歌的な田舎のイメージを抱く元凶だと他の街の人々が笑い話にするほどであるが、理想郷と呼ばれ愛される土地でもある。物語の要である理天学院は理天の西。

・夏学生(かがくせい)春学生(しゅんがくせい)/ 基本的には五歳から六歳は春学程を、七歳から十五歳は夏学程を学ぶことになっているが、生まれた月や個人の能力、希望によってはその限りではない。春学生は長時間着席する練習程度のことしかしないが、夏学生は勉学だけでなく、生活に必要なことを幅広く学ぶ。年度始めという言葉はないが、一月始まりである。

・誕生日 / 個人一人一人を尊重すべきという考えから、誕生日もアイデンティティの一部として大切にされている。ただ、年を重ねるのは誕生月の一日目と決まっている。同時に年を重ねるという連帯感からか、わけもなく同じ誕生月の人に仲間意識や親近感を感じることが多々ある。「なんとなくO型の人が好き」という感覚に近い。

・暦 / 一年は第一月から第十二月まで。「第」は省かれることが多い。ただし、その月が何日まであるかは毎年定まっておらず、知狎が作ったカレンダーのようなもので逐一確認しなければならない。

・寺院ではなく学院に住まうことはロッカが自ら決めた / この作中では描かれていないが、東世では年下の者に決定をさせるという風習がある。判断力のない子どもといえど、必ず本人の意思を確認し、大人はなるべくそれを尊重するよう努めるのが一般的。

・歌い踊る / 作中、青の国では歌い踊り、白の国では歌うのが好まれる、とあるが、黒の国では舞いが好まれ、歌はあまり好まれない。どの国でも踊りにはあまりルールがないが、舞いは、神への詩など、既存のストーリーに合わせて自分なりの振り付けをしたもの。朱の国の人は「力の限りおこなうから、歌うか踊るかどちらか一方しかできない」と言う。

・魂 / 魂があるものは魔法が使えるが、魂が弱ると魔力も弱り、魔法がまったく使えなくなってしまうこともある。人々にとってそれはとてつもなく哀れなことなので、誰の魂も健やかであるよう、互いに傷つけ合うことなく、どんな人の感情や意思も可能な限り尊重しなければならないという哲学が浸透している。

・化粧師 / 化粧をする人。魔法を使って髪や肌の色を変えたりもする。ちなみに流行の発信地的な朱の国・朱雀の都では、現在ピンクとオレンジの肌がトレンド。整形外科医のような施術ができる者もいる。魔力を持たないまじないの意味での化粧も大切にされており、晴れの舞台や重要な記念日などには化粧を施してもらう。化粧師は仕事道具の入った大きな「九彩箱(きゅうさいばこ)」を持っていて、小さい子どもの憧れの的となりやすい。この後書く機会がなさそうなのでここに書いてしまうが、アサンには朝食作りという大変な労働の対価として、学院から高価な九彩箱が贈られた。学院は寺院と違い仕事や生活と勉強の境界が曖昧だが、学びの範疇を超えた献身には必ず対価を与える。田舎育ちで高価な買い物の経験がないアサンは現物支給を望んだが、本人の希望次第では賃金を受け取ることも可能。幼いロッカでも約束通りの働きをすればお小遣いをもらえる。※九彩箱は、数え切れないほどたくさんの色が詰まっているためそう呼ばれる。四の倍数である八はもともと「たくさん」という意味があるが、それよりさらに多い九の字で多彩さを表現している。

白虎大学(びゃっこだいがく)/ 東世にある四つの大学の中で最も卒業が難しいとされる難関大学。そのため他国から入学を希望する学生が多く、互いの知識や情報交換には最適の場。いわゆる教授、助教授のことは「老師」と呼ぶ。大学の教壇に立つことを目指して老師のもとで学ぶ助手などは「先生」と呼ばれ、区別される。

龍大学(せいりゅうだいがく)/ 老師にも学生にも青の国出身者が多く、地元志向が強い。

博秋(はくしゅう)/ 大学を優秀な成績で修めた者に与えられる号。特に何かの資格にはならない。

若秋(じゃくしゅう)/ 通常、夏学程を十五歳で修めるため、十五歳〜十九歳の若者を指す。二十歳からは栄秋(えいしゅう)と呼ばれ大人の扱いを受けるが、若秋は子どもという印象が強い。たとえ外へ働きに出ても、身体も思考力も未熟な存在として見守らなければならない。二十歳から大人扱いすることについて、理にかなった根拠はない。おそらく「四の倍数はきりが良い」と思われているため。

瑕僧(かそう)/ 東世で罪を犯した者は、罪の重さによって知狎から裁かれる。彼らから魂に傷をつけられると魔力を失う。魔法が使えなくなった罪人は瑕僧として、神や人々のために寺院で様々な仕事をしながら罪を償う。しかし、単純に魔法が使えないと生活が不便であり、また魂に傷などついていたら必ず心身の健康を損ねるため、寺院に住まわせるのは彼らを保護する意味合いも強い。神から罪が許されると魔力がわずかに回復し「薄僧(はくそう)」となる。薄僧になれば寺院から出ることを許されるが、人並みの魔力を取り戻せず、そのまま寺院に住み込みで働き続ける者が多い。

・玄武体術大会(げんぶたいじゅつたいかい)/ 大そうな響きだが、年齢制限さえクリアすれば、ラジオ体操くらいの気軽さで誰でも参加できる大会。青の国で言えば、まず区内で予選がおこなわれ四人ほどが選出され、青龍で開かれる本戦で各区の代表が勝負し青武王を決める。ただし、一年のうち四月かけて毎月各国で武王を決めるため、他国の武王、元武王が本戦に参加する場合がある。大会ルール規定では、舌の上に炎を乗せ、先に炎を消した方が勝ちとなる。物理的に消すことも可能だが、この炎は魂と連動するため、強い恐怖や敗北感を感じると自然と消えてしまう。大会が開催される国の順番はランダム。

・呪号(じゅごう)/ 呪文に分類されるが、かけ声に近い。青の国では農作業や網漁の際に大きな魔法を使うことが多かったため、呪号も大きな声で叫びやすいものへ変化していった。白の国の「ニエ」という呪号は、漢字をあてると「魄沈」となる。大きな声で発音しづらいため、玄武体術などには向かないとされる一方「集中しやすくて合理的」とも言われており「普段は自国の呪号だが、繊細な魔法を使うときはニエを使う」というニエユーザーも存在する。

・アヤ、アヤヤーなど / 感嘆詞。日本語と中国語で言う「あなや」「アイヤー」両方のニュアンスで使える。

・冬児(とうじ)/ 一歳未満の赤ん坊。東世にはゼロの概念がないため、零歳という言葉はない。始まりの季節が冬であるため、新生児を冬児と呼ぶ。

・サン先生 / 学院は保育所としても機能しており、さらにサン先生は産婦人科医のような役割もこなす。分娩はもちろんだが、産褥期の母親のメンテナンスや妊婦のメンタルケアにとどまらず、赤ん坊の健康診断や、母子・父子それぞれの育児に関する相談も学院の管轄となっている。そのためサン先生は理天区で広く顔が知られている。

・ちらほらと昇りだした星 / 月も太陽もない世界なので、星も天体ではない。星売りと呼ばれる職業の人が夜になると揚げている。星売りは新聞社、広告会社、図書館、博物館などとして機能しており、業務内容は幅広い。流れ星は個人が勝手に流すことができるため星売りを通さないが、内職で作った流れ星は星売りに買ってもらい、星売りがまたそれを売る。

・ムウ / 感嘆詞。学院では使用頻度が非常に高い。「よきかな」に近いニュアンスで、美味しいものを食べた時と人を褒めるときによく使う。挨拶の言葉「ムウムウ」が起源である。

・四百回八百回 / 「たくさん」を意味する時は特に四の倍数を使いたがる。

・西世(せいぜ)/ サイゼではない。東世にとっては異世界だが、そうは言っても地理的に遠すぎるわけでもなく、ずいぶんと昔から交流があるらしい。少なくとも、東世の各大学には、西世をはじめとした異世界の人と話をすることができる道具がある。東世と最も異なるのは知狎に当たる存在がまったくべつの種族であること。東世の人々の魂は知狎が司るが、西世の人々の魂はそのべつの神々に管理されている。魂の所属は永遠に変わることがなく、それゆえに互いに交わることのない「異世界」という考えになった。ちなみに西世の言葉で東世を指すときは「アルカディア」と呼ぶ。西世は「ユートピア」だという。東世からは遠いが、西世と陸続きの異世界「北世(ほくぜ)」と「南世(なんぜ)」もある。

・朋人(ゆうじん)/ お友達、知り合い、友達の友達、きょうだいの友達、友達の両親、両親の知り合い、と、知らない人でなければどんな人にでも使える言葉。「仲の良い朋人」と言うことはあるが「友達」に限定するような言葉はない。

・天上武王(てんじょうぶおう)/ すべての国で武王になるには、まず自国で武王になる必要がある。そうすれば翌年以降は何度でも他国での本戦に参加できるので、四つの国を順に巡り、そのすべてで優勝すれば晴れて天上武王である。

・ジュゼ / 寺院に所属する僧尽。近年、ジュゼが玄武体術大会に参加する年は勝てないから出ない、と弱気なことを言う者が増えている。

・甜甜華(ケーキ)/ 西世から伝わった「ケーキ」が東世でアレンジされたもの。食べ物は西世がルーツのものが多いので、漢字はほぼ当て字。誕生日をお祝いするケーキは、蒸しパンに甘くて柔らかいチーズ(鮮乳酪と書く)を塗って、果物で色鮮やかに飾り付けたものが主流。(今後食べ物については、わかりやすくカタカナで「スープ」とか「カレー」とか書くことが多いと思います)

・じゃあ寮館を使わせてもらいなさい / 子どもの意思を尊重する傾向の強い社会であるため、学校に行きたくないとごねる子にも柔軟に対応している。遠足気分で学院の寮で過ごし、満足したら家に帰るような子もいるし、朝どうしても早く起きられないからと夜になると家から学院に帰ってくる子もいて十人十色。子どもの性質や申し出によって対応は様々だが、まったく外に出られない子どもの場合は逆に先生が家に出張してくる。

・朱の国風ファッション / 人目を惹く鮮やかな色使いや大きな刺繍が特徴的だが、最も他と違うのは頭部を大きく飾り付ける文化。長い髪の毛をアレンジすることもあれば、帽子やヘッドドレスのような装飾品で美しく見せることもある、近年、他の国ではあまり帽子をかぶる習慣がなく、帽子をかぶるだけで「朱の国風だね」と言われる。

・星読み(ほしよみ)/ 新聞を読む感覚で「星を読む」と言う。満点の星空は東世のSNS的ツールで、それゆえ夜はだいたい天気が良い。星一つ一つが情報記事であり、人並みの魔力があれば自分の探している情報を瞬時に見つけて読むことができる。「詳しくはウェブで」のように「詳細は本日の南の空をご覧ください」と言う広告も存在する。魔力を使って読むため、視力は関係ない。星は毎日人が揚げているので、もちろん北極星や星座のようなものはない。星を使って何か公開したい人は星売りに相談する。

・ムウムウ / 元は、西世でも他の異世界でも通じる挨拶。発音すると口がキス(東世では歓吻と書く)の形になるため、親愛の意を表せることから世界共通の挨拶になった。そんなバックグラウンドから、人懐こい東世の人の間では爆発的にこれが流行り、今でも親しい人への挨拶、ちょっとしたお祝い、賞賛など、様々な場面で使われている。「ムウムウ」と言いながら両頬をこねくり回すのは、家族などごく親しい関係ではスタンダード。手で頬をそっと包むこともあれば、両手を広げるだけにとどめることもある。

・おせっちん!/ 他人を罵る言葉を使うと魂が痩せる、という言い伝えが根強く信じられおり、酷い悪態の言葉を使いたいときは代わりにこう言う。おせっちん(お雪隠)はトイレ。特に悪い言葉ではないのでセーフとされる。作中ではトイレは「厠」とし、お雪隠は誰も使わないような古い言い方となっている。まれに、自分の魂を犠牲にする覚悟がある、と表明するためにわざと酷い言葉を使うことがある。

・冬児は親を選べない / 赤ん坊は一人で何もできず、不自由なことが多いのを哀れんでいる。冬は最も辛い季節で、小さくて弱い存在である子どもは冬に例える。春と夏を経て、実りの季節である秋を迎える。「栄秋」は一人前の大人を指す言葉。ここへ来てやっと自分が思い描く自由で豊かな人生を始められるのだ。