凱歌のロッテ 歌集

創作ファンタジー「凱歌のロッテ」短編小説を公開中

【小説】ユノン先生、赴任する

※この作品はnoteで書いたものをコピペしたため、不自然な改行(逆に不自然に改行がないことも)がありますがどうぞご了承ください。

また、造語にふりがながないので、大変お手数ですが別記事の解説にてご確認をお願いいたします。

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トキノは珠珠の子なのだそうだ。言われてみれば、両親と手を繋いで歩く彼の横顔は、妙に照れくさそうだった、ような気がする。現在自分が置かれている環境か、それとも大人と手を繋いで歩くこと自体か、何かしらがトキノによっては不慣れで、むず痒い心地のすることなのだろう。

珠珠の子は神からの贈り物だ。珠珠の親となる者は、神である知狎から与えられた預言と加護を携えて子を迎えに行く。東世では知狎から賜るものを「珠」と呼ぶことが多いが、かつて珠珠のことを「知狎の子」と呼んでいた時代もあるのだそうだ。知狎からの寵愛を受けている珠珠の子は大変縁起が良いと言われている。珠珠は将来良縁に恵まれやすいという話もあるほどだ。

トキノは七歳で、同じ年頃の少年たちと比べると口数が少ないように感じる。以前は東世最東の藤京区に住んでいたそうだが、十二月に新しい家族とともに、青の国西部に位置する理天区へやってきたのだという。この一月から理天学院で夏学生として学んでいるが、年上の子たちから「笛が上手だ」と褒められて、とても嬉しそうに笑っていたのが印象に残っている。ロッカはそんなトキノをただ見ていた。その笑顔はまさに「屈託のない」という表現が相応しく、喜びに満ちていて、健やかで、きっと「子どもらしい笑顔」なのだろうと思う。

ロッカもトキノと同様まだ幼い少年であるが、おそらく「子どもらしい笑顔」とは「大人が喜ぶ笑顔」という意味で大方間違っていないと確信している。無邪気で、彼らを信頼しきった眼差し。甘えるようにその瞳を瞬かせ、それを見た大人は可愛らしいと言って顔を綻ばせる。ロッカはこの学院で、その様子を何度も見てきた。

ロッカの妹は珠珠の子だった。ただし、ある日突然両親が妹を連れてきたのではない。自分と妹を置いたまま何日も帰ってこない家族を、扉の開かない家の中でじっと待っていた時、突然見知らぬ女が訪ねて来た。彼女は妹をしっかりと見据え、この子はうちの娘のはずなのだ、と言う。不思議なことに、妹もその女の言葉に疑問を感じている様子はなかった。ロッカはあまり驚かなかった。むしろ、二晩が明けても家族が帰ってこなかったときから、知狎に導かれた新しい家族が現れて、自分たちを助けてくれてるのではないか、と考えるようになっていたからだ。ロッカの予想は当たった。しかし、彼らに選ばれたのは五歳の妹だけで、七歳のロッカには新しい家族が迎えに来ることはなかった。

妹の新しい家族は親切で優しい人たちだった。彼らの計らいでロッカは理天学院内の寮館に住まうことができたし、妹から誕生日を聞いたのか、毎年九月には学院を訪れてお菓子や玩具を贈ってくれる。

ロッカの新居となった寮館には、家が遠くて学院へ通うのが難しい子や、家族と距離を置いた生活が望ましいと判断された子など、様々な事情の子どもたちがいたが、彼らに比べると孤児は少なかった。後から知ったことだが、孤児は学院よりも寺院で暮らす場合が多いらしい。寺院では仕事をすれば賃金を貰うこともできるし、様々な仕事に触れる機会があるため若いうちから自立しやすい。また、そのような合理性とは別に、寺院は知狎と人々を繋ぐ機関であり、神からの加護を賜る場所であると認識されている。そのため特定の大人から愛情を得られる環境にない子どもは、神からの恵みを受けられるようにと、学院ではなく寺院を選ぶ発想になることが多いらしい。

寺院ではなく学院に住まうことはロッカが自ら決めた。なぜということはないが、子どもは五歳になったら春学生というものになり、七歳からは夏学程を学ぶのだ。自分たち兄妹はなぜか学院へ通っていなかったが、本来はそういうものなのだからそうすべきだ、という考えしか浮かばなかった。

学院内で暮らし始め、十歳になるまでの間に、ロッカは同じ寮館の子どもが珠珠の子になるのを三度見た。ロッカにとっては意外なことに、迎えが来た子は孤児だけに限らなかった。最初はなぜ、と単純に不思議だったが、そういうことは珍しくないのだとわかると、だんだん苛々するようになった。身寄りのない自分の元へ優先して迎えが来るのではないというのが、ロッカを心底嫌な気分にさせる。それではまるで、自分に迎えがこないのは、自分を選びたいという大人がいないからのようではないか。ロッカよりも妹の方が優れた子どもだったとでもいうのか。いつまで経っても迎えがこない自分は、一体何なのだ。どこが悪いのか、何か原因があるのなら言ってみろ。

もともとロッカは、授業の途中でも、食事の前でも、気が済むまで歌い踊ることが多い子どもだった。東世では歌うのも踊るのも日常のことで、主には贖罪や悲しみなど、強い感情を持て余して落ち着かないときに歌で神に救いを求め、魂を慰めるために踊る。生活の中で魂を健やかに保つことを何より重んじる人々であるから、歌うことも踊ることも止めることはないし、いつでも好きなときに好きなところで彼らは踊りだす。彼らの魂のために必要なのであれば、すべてのことは二の次にして踊り歌う方が良いのだ。いつの間にか、声が枯れるまでめちゃくちゃに歌い、夜遅くまで踊るのがロッカの日課になっていた。

最初はきっかけがあったはずの苛々した感情は、だんだんと慢性化していった。朝から夜まで苛々が続くことも、理由もわからず何かに怒っているという状態も、何日も続くのはとても心地が悪いことで、ロッカ自身をもひどく苦しめたが、気分を紛らわせるための粗雑な振る舞いのせいか、気がついたときには「ロッカは乱暴な子だ」と言われるようになってしまっていた。どんなに歌っても踊っても、またすぐにどこから湧いて出てきたのかわからない怒りのような感情が、ロッカの魂をがんじがらめにしてしまう。

もう長らく、気が晴れるということがなかったように感じる。このままずっと嵐が止まず、晴れることがないかのような不安から目を背けるのは難しかった。

しかしロッカには、確かに自分はトキノのような子どもではない、という自覚がある。ロッカは昔から、周りの子どもがなぜわざと子どものようなことを言うのか、子どもらしいわけのわからない賑やかな絵を描いて、子どもらしい無垢さでもって「先生はどうしてそんなに大きいの?」と尋ねるのかがわからなかった。子どもと大人は地続きだ。先生たちは子どもより先に生まれたから、後から生まれた自分たちより成長するのが早かっただけだ、と、ロッカならわかる。しかし本人たちは、どうやら子どものふりをしているわけではないし、子どもらしい絵を描こうと努めているわけでもないらしかった。あるとき、ロッカは妹が絵を描くのが好きだったことを思い出す。花弁が緑色のひまわり。人ではなく、人の影だけを描いたというぐちゃぐちゃの絵。人間の子くらいの大きさの蟻が、赤と黄色と青で描かれている絵もあった。ロッカはおそらく、絵を描くのが下手ではない。ロッカより四歳上の、アサンという夏学生がいる。彼は寮館の子ではないが、昔からとても絵が上手いと言われており、教師たちからも今すぐ化粧師になれそうだと賞賛されるほどだ。ロッカはそのアサンから、絵も工作も裁縫も上手でとても器用だと、たびたび褒められていた。

もしかするとその器用さのせいなのだろうか。ロッカ自身も子どもであるはずなのに、自分と妹の絵はまったく異質なのだとなぜかわかる。ロッカの絵は確かに上手だと褒められることが多い。しかし大人がすごいともてはやして喜ぶのは、きっと妹の絵だ。自分の絵は子どもらしくないから、きっと可愛くもないのだろう。何の屈託もないトキノの笑顔を見たとき、あぁ、敵わない、と感じた。これが珠珠だ、と。鏡を見なくてもわかるのだ。きっとロッカは、あんな風に笑っていない。自分は大人に喜ばれる子とは違うのだ。だから待てども待てども。

待てども、待てども。

今は、誰にも選ばれないまま一人で大人になるのが、とても怖い。



  *  *  *

 

二月に理天学院へ赴任してきたユノン先生は、優しげな風貌と面倒見の良い性格とは相反して、子どもからは少々不人気である、と、言わざるをえない。とても若い先生なので、最初は良い遊び相手のお兄さんとして引っ張りだこだったのだが、何の悪気もなく痛いところである図星をつき、一切の遠慮なしに懇々と正論を説くため、だんだんと遠巻きにされるようになった。意地が悪いわけではないので嫌われるとまではいかないが、好んで近づこうとする子は少ないように見える。とはいえ、十四、五歳の学生の中には一目置いている者もいるようで、アサンもその一人だった。ロッカが聞きかじったところによると、ユノン先生は白の国の出身で、白虎大学をわずか三年で卒業し、博秋という号を持っている秀才らしい。博秋とは大学の老師が必ず持っている号であるという。秀才といえば、理天学院には他にも、青の国の都にある青龍大学で治癒魔法と医学を学んだというシャート先生がいる。しかし彼女の場合は大学で五年ほど学んだが、途中で働き始めたため卒業はしていないのだそうだ。シャートのように途中で学ぶことに満足し、卒業を断念して新しい仕事を始めてしまう人は少なくないとのことだった。

そういえば、ユノンが赴任してきてから学院に見たこともない来客が増えたように思う。各地の寺院や学院から、急な知らせや大切な情報をもたらす流れ星が届く数も増えた。流れ星はきらきらと輝く美しい多彩な石であるが、特に書状などがくくりつけられているわけではない。石そのものをパキパキと割って食べることで報らせの内容を理解する仕組みである。そのため大人数で分けて食べれば同じ情報を共有することができるのだが、理天学院には子どもがたくさんいるであろう、とは当然誰もがわかることだ。そのため、同業である教師も寺院に所属する僧尽も、わざわざ大きな流れ星を用意して送ってくれる者が多い。そうすると、数人の大人が齧って用無しとなった残りの流れ星は、自然と子どもたちのおやつとなる。流れ星は大人からも子どもからも非常に人気の高いおやつだ。食感が良いだけでなく、木の実と花の蜜を合わせたような芳しい香りがし、口に含めばとても甘いが、ほんの少し苦味があり、それが隠し味のようで食べ飽きることがない。ユノン自身は不人気だが、ユノンの元にはたくさん流れ星が届く、ということが子どもたちにわかると、彼にも一定の価値が見出された。また、流れ星を作る仕事は誰にでもできるため内職として人気があり、一般的には二、三人の大人が丸一日以上かけて拳ほどの大きさの流れ星を完成させるのだが、ユノンは一日あれば拳の大きさの流れ星を二つも作ってしまう。このことからユノンは子どもたちから賞賛と敬意を得ることとなり、たとえ少々嫌なことを言われても、もはや彼をぞんざいに扱おうという者はいなくなった。

ロッカはといえば、彼のことは好きでも嫌いでもなかった。ユノン先生は嫌なことを言う、という評判だけは耳に入っていたが、自分にはまだ思い当たるところがなかったからだ。しかしアサンが彼を頼りにしているようなところは少し面白くない。見た目からも若い先生であるのはわかっていたのだが、ユノン先生は本当に若いようで、歳を聞けばまだ若秋、つまり二十歳にも満たないのだそうだ。十四歳のアサンからすると歳が近くて話しやすいのかもしれないが、代わりにロッカと話す時間が減ったように思えてならない。ロッカをいたぶるようないやな苛々が治るわけではなくとも、アサンと他愛のない話をして過ごしている時間だけは、多少自分がアサンのような穏やかな人間であるように感じられた。アサンはロッカのことを「暴れん坊」と呼んでからかうことはあったが、嫌悪したり困ったような顔をすることは、ただの一度もなかったと記憶している。

「理天の子はみんなのんびりしていて暢気だからな。おまえみたいなのが一人いるおかげで、ここはやっとちょうど良くなったんじゃないか」

と、アサン自身がとても暢気に笑っていたのが、ロッカにはなんとなく忘れがたい。

朝も夜もめちゃくちゃに歌って踊るロッカの日課は続いていた。一日中身体を動かしているので、余計なことを考えてしまう前に疲れて眠ってしまうことだけは進歩だったが、来る日も来る日も嫌な感情に苛まれる状態には変わりがない。

「アヤヤ、踊りというか舞いというか、青龍体術みたいになってるね」

ある日の夕方、ユノンに話しかけられた。踊るのも歌うのも疲れて、適当に身体を動かしていたのが体術のように見えたらしい。

東世で体術といえば、一般的には黒の国で大成された玄武体術を指す。これは体術と水の魔法を組み合わせた護身術であるが、水の魔法は魔力の弱い者でも使いやすいため、読み書きより早く習う子も多い。現在では各国で玄武体術の大会が行われるほど人気が高く、最も大衆的な武術だ。対して青龍体術は、瑕僧同士の喧嘩を起源とする体術である。瑕僧とは、罪を犯した罰として神に仕える者を指すが、彼らは知狎によって魂に傷をつけられているため、一時的に魔力を失っている。つまり、青龍体術は水の魔法を使わない点で玄武体術とは大きく異なるのだ。今では競技として研磨されたため、多少の魔法を使う場合もあるが、青龍体術は開始する前に勝敗の決め方などについて、相手といくつか制約を交わして誓う、という形式が独特である。

「ユノン先生は、玄武体術って得意?」

疲れて頭が回っていなかったせいか、とっさに思いついた言葉がそのまま口に出てしまった。ユノンはとても背が高いので、しゃがんだ姿勢でやっと顔が見える、という感じがする。顔貌は似ていないはずだが、ロッカににっこりと笑いかけた顔が、なぜかトキノのことを想起させた。

「そこそこかなあ。すごく玄武体術が上手な兄さんがいて叩き込まれたから、下手くそではないと思うけど。ぼくは正直、小さいときはそんなに体術に興味がなかったから、仕方なく兄さんに付き合ってあげてる気持ちだったんだけど、上達してきたらまあ、面白く感じるようになったよ」

「見たい。玄武体術上手い先生、今あんまりいないし」

「うーん……うん、わかった。他のみんなには内緒で、ちょっとだけならいいよ」

ユノンはしゃがんだままの姿勢でそう言ったのだが、彼が最後まで言い終わらないうちにみるみると、首の後ろから大量の水が溢れてきた。何事が起きたのか理解できず、ロッカは唖然とした表情で固まる。水はユノンの首の左右から、巨大な二匹の蛇がうねるように突き出し、霧のような白い煙を出しながらだんだんと交わって、一つの塊になった。塊はやがて荒削りな人の形になっていく。あちこちから何度か白い水しぶきがはねて、ロッカの体も少し濡れた。塊全体が上に跳ぶような動きをし、それに少し遅れてバシャッという大きな音が鳴ると、それの動きが突然人間らしくなった。水らしく透けてはいるのだが、どう見ても首を回したり、片手で腰を叩いたりといった人の動作をしている。

「これ、ぼくの兄さん。じゃあちょっと兄さんと手合わせします」

いつの間にかロッカのすぐ脇に立っていたユノンは、簡単に礼の姿勢をとってからそれと向き合った。水でできているため顔の作りや衣服などの細部は不明だが、ユノンと同じように体格がしっかりとしていて背が高い。彼にはやや剣呑な雰囲気があり、姿だけでなく、手合わせの際の仕草や癖までも精巧に象っているのはおそらく間違いないだろう。

勝手知ったる仲であるからなのか、それともそういう戦術なのか、まるで考えなしのようにユノンは兄の形をした塊に突っ込んでいった。兄の方は懐に入ってきた弟を拳で突こうとして、やめる。ユノンの体勢が低すぎたからかもしれない。代わりに竹か鞭のような水の塊で思い切りユノンを叩き飛ばし、間合いを整えて脚を突き出す。

「ニエ!」

大きな声ではなかったが、ユノンの発した声にロッカは驚いた。そういえば、通常の呪文と違い、大きい魔法を使うときや気合を入れるときの呪号は、各人の育った国によって違うのだったか。白の国の呪号は玄武体術に最も適さないと聞いたことがあるが、確かに自分達の使う青の国の呪号とは雰囲気がまったく違う。妙に落ち着いているのだ。身体の奥から絞り出すような熱い勢いはなく、逸る心に手綱を付けて調子を整えるような、冷静沈着とさえいえる響きだった。

「ニエ、ニエ!」

兄から教わったというだけあって、二人とも戦術が似ているのだろう。互いに掌打を突き出しあっては避け、躱された隙を見て水で殴ろうとし、しかしそれも新たな水の壁や脚で砕かれてしまう。通常は大きな攻撃を入れる際に呪号で自らを強化したり鼓舞するものだが、ユノンの呪号をよく聞いていると、ときどき嘘をついているのがわかる。呪号で大きな魔法を使うように見せかけて、使わない。相手が彼の兄でなかったら、このほんの少しの嘘だけで、大きな一撃に備えようと身構える相手を翻弄してしまえるのだろう。青龍体術は『バカでも勝てる』という謳い文句で有名であるのに対し、玄武体術は確かに多少頭を使う競技ではあるが、こんな騙し合いのような手合わせは初めて見る。

何がトキノみたいな無垢な笑顔なもんか。とんだ大嘘つきじゃないか。

ロッカはだんだん面白くなってきた。身体全体が興奮しているのか、ユノンの身体に呼応するようにどんどん軽くなっていく。先ほどまでの倒れそうな疲労感は不思議と薄らいでいた。そういえばユノン先生は、玄武体術の醍醐味である水の大技をまだ出していない。いつ使うのだろう。早く見たい。次はどうなるのか、もっと見ていたい、強くそう思った。

「アヤ!」

ロッカの願いとは裏腹に、勝負は突然終わってしまった。ユノンと対峙していた水の塊が、それまでの形を失ってざっと地面に流れてしまったのだ。何事かとロッカが驚いて立ち上がると、真向かいの校舎の窓越しに、中年の小柄な男性の姿が見えた。サン先生だ。あの部屋では「冬児」つまり一歳に満たない小さな赤ん坊を預かっている。日中は手の空いている年長の夏学生たちとサン先生が彼らの世話をするのだが、夕飯前には無人になることが多い。どうやら今日は、たまたまこの時間まで預かる赤ん坊がいたようだ。サン先生はしっとりと黒い髭を撫でながら窓から身を乗り出した。

「なぁにユノン先生、お掃除?」

「はい。いつの間にか水遊びになっちゃいまして」

「アヤヤー。まだ寒いのにあんたたち元気だねえ。お夕飯の前にこっちもお願い。小さい子がおしっこしちゃったって」

「はい、わかりました」

そう言いながら、ユノンが当然のようにロッカの手を引いて歩き出す。ロッカからすれば、文句を言う隙が少しもなかった。が、まあいいか、と大人しくついていき、素直に掃除道具を引っ張り出す。掃き清めるのはユノンに任せ、ロッカは使いっぱなしで散らかっているものを整理する仕事に取りかかった。あちこちを片付けているうちに、そういえば、と気づく。

「さっきのおれ、久しぶりに苛々してなかった」

今こうして掃除をしている最中ですら激しい不快感はないが、ユノンの玄武体術を眺めている時は本当に頭の中がすっきりとしていて、気持ちも晴れ晴れとしていたように思う。

「少しの間だけ、忘れてどっかいっちゃたのかな」

独り言のつもりだったのだが、予期せずユノンから返事のような言葉が返ってきた。

「苛々するのを忘れてたってこと?」

「苛々するのを忘れるのは、きっとすごく難しいと思うよ。ぼくがロッカに忘れてほしいと思うのは、それじゃなくて」

そこまで言うと、ユノンは頬に手を当てて黙った。何か逡巡しているのか、少しロッカから目を逸らす。

「不安」

「不安?何の?」

「それはぼくにはわからない。ロッカとはじっくり話したこともないし、そもそもぼくは来たばかりだから。でも他の先生たちや大きい子たちから話を聞いているから、ロッカが思っているよりぼくはロッカのことを知ってるかもしれないよ」

ユノンは腰をかがめてにっこりと微笑んだが、やはりトキノの無垢な笑顔に似て見える。サン先生相手でもけろりと嘘をつくような男なのに、なぜか騙されてしまう。

「アサンが言ってたんだ。ロッカは絵も工作も上手だけど、お裁縫が一番すごいって」

「え……裁縫?おれが裁縫が上手いってアサンが言ってたの?本当に?」

意外だった。確かに苦になるほど下手ではないかもしれないが、その程度だ。絵や工作に比べて、裁縫に関しては得意だという自負のようなものがない。

「理天学院では、自分たちが破いたものを繕ったり、小さい子のために服を作ったり仕立て直したりしてお裁縫を勉強するんでしょ。お裁縫が好きな子はいいけど、苦手な子や嫌いな子は途中でいやになって、先生や年長の子たちに投げ出してしまうんだってね。ぼくもお裁縫が苦手だからわかるけど、絵や工作は、いやになったらそこでおしまいってことにできるよね。最初から難しいものに挑戦しないこともできる。でも服を繕うということは、必ずこうしなきゃいけないっていう終わりかたがあるでしょ。ぼくはね、やっつけなきゃいけない服を目の前にすると、終わりまでの遠い遠い道のりが見えていやになっちゃうんだ。ここまでやらないと終わらないんだって思うとがっかりする」

腰が痛くなったのか、ユノンはそこでロッカの目線に合わせてかがむのをやめた。少し伸びをしてから、べたっと地面にあぐらをかく。紫色の空には、どこかへ飛んでいく流れ星が放つ光がうっすらと伸び、ちらほらと昇りだした星が煌めいているが、ロッカはユノンから目を離さなかった。

「ロッカは途中で放り出したことが一回もないって、アサンはすごく褒めてたよ。いつも最後まで一人でできるって。シャート先生も、ロッカの偉いところは、人のために繕うときも自分のために繕うときも、どっちも同じくらい早くて上手に縫うことだって。人のために自分ができることをしてあげられるのが、ロッカには当たり前なんだね」

「だって得意なことだったら……。おれにはそれがそんなに偉いことには思えないけど」

「じゃあ、ロッカは料理ってできる?調理場のお手伝いはどれくらいしてる?」

「料理はおれ、全然手伝ってない。掃除も洗濯もあんまり手伝ってないけど、料理は一番できなくて、野菜の皮むくのしかできない」

「ムウ!だったらぼくよりずっといい子だなあ。ぼくは大学生になるまで野菜の皮むきなんてやったことなかったから」

「ええ、嘘だろ!?それはさすがに信じらんない!おれでもダメだってわかるよ!ひとりだったらどうやって生きてくんだよ!」

「うんうん、もう四百回八百回と言われてるから話を戻すけど、去年から食事の用意に専念できる先生がいらっしゃらないそうだね。だから得意な人が自然と多く調理場に立ってるって聞いた」

ロッカもそれは知っていた。調理に関する魔法は大変便利で重宝されるが、必要な知識があまりに多いため、自在に使いこなせる者は案外少ないと聞く。以前学院の調理場を仕切っていた先生は魔法薬と薬学の専門家だった。調理のために雇われたのではなかったのだが、彼女は料理に関する魔法に詳しかったため、自然と調理場に立つ回数が多くなり、夕飯の支度は必ず引き受けてくれていた。しかし魔法を使わなくても食事の用意は可能なため、彼女が去った後も後任らしい後任は用意されず、不在のままになっている。

「ぼくは調理場にいると邪魔だからもう来るなってお尻叩かれて追い出されちゃったけど」

「誰に」

「サン先生に。でもいると邪魔だなんて叱られかた、なかなかないでしょ。サン先生ほどの人でも、慌しくて忙しない調理場ではそれくらいピリピリするんだね。だけど、自分の得意なことを不得意な人のためにすることが当たり前だって、なんてことない顔して料理してる子もいる。歌ったりなんかしながら」

そのユノンの言葉から、今朝も目にした調理場の光景を、ロッカはすぐに思い出すことができた。

「アサンのこと?」

「ムウ!アサンは寮館住まいじゃないのに、寮館の子の朝食を作るために毎日とても早く来てくれる。ぼくは誰にでもできることじゃないと思うんだけど、アサンはロッカと同じことを言ったんだ。早起きも料理もたまたま得意だから、できることをしているだけ、とか、誰にでもできることだから、自分ではそんなにすごいことじゃないと思うとか」

「本当に?」

確かに調理場に立つアサンはいつもけろりとした顔で、歳の近い子と冗談を言い合いながら、魔法のように次々と作業をこなしていく。実際にはほとんど魔法は使っていないのだが、アサンが何かを手にして動くと、乱雑に置いてあった香辛料はあっという間に必要な分だけ刻まれて、さっきまで転がっていた野菜の切れ端はどこかに片付けられている。その間、ずっと火にかけていた大鍋の中は程よく温まり、隣で水に浸けられていた蓮根はさくさくと細く切られ、いよいよ沸騰し始めた湯の中へと落とされる。手際が良いと言うのだろう。ロッカには何が起きているのかも、次に何が起きるのかもわからない。下手にロッカが手を出そうとすれば、ユノンのようにただ邪魔になるだろう。だから調理場は苦手だと感じて、なんとなく距離を置いてきたのだ。

誰がどう見てもアサンはすごいのだと思っていた。しかしアサン本人がそれに気づいていないとは意外だ。誰にでもできることだから、たまたまできるのだからすごくはない、と、彼が信じているのなら、まるで宝物をそうと気づかないまま手放すことのようで、もったいない。

「昔の人が書いた本の中に、自分の優れたところは自分ではわからないから、他人から教えてもらいなさいって書いてあった。『自立は孤独にあらず。大成する個には大勢の他を』にはそういう意味も含まれているんだって」

ユノンが言ったのは、東世では有名なことわざだ。小さい頃は前半部分しか聞いたことがなかった。「もしあなたがいなくなったら、あなたを知っている人は悲しんだり心配したりする。だからあなたは一人のときもみんなのものである」という意味で使われることが多いが、学院では「自分の言動は他人に影響を及ぼすものだから、人間は一人で生きているように見えても独りきりということはなく、生きているだけで互いに干渉し合っている。より良く生きるためには大勢の人間から影響を受ける必要がある」という意味がより正確であると教えている。

「おれ、その後半の意味はよくわからないんだよな」

「小さいうちはたくさん褒めてもらいなさいってことだよ」

「先生なのにそんな適当なこと言って……」

「ロッカもアサンも、他でもない自分のことなのに、優れているところはひとから褒めてもらうまでわからなかったでしょ。だからたくさん褒めてもらえなきゃ困る」

ロッカは黙ってしまった。そういえば、最初はロッカの裁縫の話をしていたのだったか。

「もしかして、ロッカは褒められても嬉しくないのかな」

「そんなことない」

「ロッカの嬉しい気持ちってどんなふう?ぼくじゃなくて、他の先生からお裁縫が上手だねって言われたら嬉しい?」

どうだろう。ロッカは考えたが、答えはすぐに出た。おそらく、学院の中の誰に褒められても、あまり嬉しい気持ちにはならないのではないか。

「裁縫のことは誰から褒められても嬉しくない。上手くなろうとして頑張ったわけじゃないし」

「じゃあ絵だったら?ロッカはすごく得意だって聞いたよ」

絵は、少なからず上手く描こうと考えながら描いていた。あれは努力したと言っていい経験だったと思う。努力した覚えもない裁縫と違い、絵であれば相手が誰であれ褒められて嬉しいと感じるはずだ。ただ、それでも舞い上がるほど嬉しいというわけではない。ロッカは想像し、考えながら、ぽつりぽつりとそう答えた。

「なるほど。ロッカはそう考えているのか。ちょっとだけだけど、さっきよりはおまえのことがわかった気がするよ」

ユノンの表情がわずかに変わった。ひんやりとした夜の風に撫でられたからか、ユノンは自分の頭を触りながら少し俯く。ロッカは急に、校舎の柱にもたれてユノンと二人であぐらをかいているこの状況が妙に思えてきた。ユノンはまたロッカの方に目をやる。愛想よく微笑むわけでもなければ真剣というほどの凄みもない、ただ静かな表情だった。

「これはロッカの話じゃなくて、ぼくが大学で研究をしていたときに出会った女の子の話なんだけど、興味なかったら聞かなくてもいい」

あえて返事はしなかったが、なんとなく、ロッカは立ち上がらなかった。

「数年前の話で、その子は魂が少し弱ってる子だったんだ。そうだ、ぼくは白の国の出身だから、これは白虎の都の話なんだけど、白虎は東世で一番大きな港町で、西世と貿易をして栄えた都でね。知っての通りだけど、西世と東世の人間は本来ならあまり交わることができない。お互いの国の食べ物が合わないから。たくさん東世の食べ物を積んでいける船に乗って行ってもダメなことがあるみたいで、白虎には魂が弱ってる人というのがたくさんいるんだ。ぼくはその頃、子供の魔力に関する研究をしていたから、研究を手伝ってくれる小さい子を探していたんだけど、あるとき大学の朋人がぼくのところにその女の子を連れてきたんだ。ただし魂が弱ってるらしいけど、と言って。その朋人は治癒魔法の研究をしていて、その子は彼の患者さんの娘さんだった。その子のお父さんは船乗りで、これまでも何度か魂を弱らせてしまうことがあったんだって。その時もお父さんは療養中で、お母さんによれば、女の子が弱ったのはそんなお父さんを見ていたからじゃないかって話だった。そういうことは本当にあるから、なるほどと思っていたんだ。ぼくが集めた協力者の子どもたちは、その頃は確か二十人くらいかな。来たいときだけ来てもらう約束だったから、全員揃うことはほとんどなかったけど、誰もいないっていう日はなくてね。毎日六、七人くらいは集まってくれた。その子……面倒だね、名前がいるな。仮にジュゼちゃんとしよう」

ロッカはくすりと笑った。適当な仮名を与えるとき玄武体術大会の優勝者の名前を当てはめるのはよくあることだが、ジュゼは青の国出身の天上武王である。天上武王は東世を構成する東西南北すべての国で武王の称号を得た者のことで、ジュゼは青の国の誇りだ。どう考えても魂が弱った女の子の名ではないし、ジュゼちゃんという呼び方もばかにしているようにしか聞こえない。

「ジュゼちゃんに研究の内容を説明して、来れたら来てほしいという話をして、五日目くらいで気づいた。ジュゼちゃんは毎日来るんだ。ぼくは自分が怠け者の化身みたいな子どもだったから、そういう勤勉さって不思議で、なんとなく気になる。単純に大学に来るのが楽しいのかもしれないし、わからないけどちょっと話をしてみた。でもジュゼちゃんは魂が弱っていたからね。そういう子どもから本当の気持ちというのか、本音のようなものを聞き出すのってとても難しいんだけど、毎日来てくれるから話す機会はいくらでもあったし、とにかくいろいろ聞いてみたんだ。しばらくそうやって過ごして、半年くらい経った頃、ジュゼちゃんがぼくのところに来て『急にわかった』って言った。なんだろうと思ったけど、ぼくはすごく聞きたかったから、講義をすっぽかして大学の庭でジュゼちゃんの話を聞いた。」

「ジュゼちゃんは、自分が今まで自分ではなかったことがわかった、と言った。ジュゼちゃんはそのとき十二歳くらいだったかな。すごく聡い子だったみたいで、老師が書物に書いてある難解な魔法のことを教えるときみたいに、過去の自分と今現在の自分の違いについて、ぼくに丁寧に説明してくれた。だからここからは彼女自身の話してくれたことなんだけどね。ジュゼちゃんは、小さい頃からお母さんが大好きだったんだって。だんだん本当に好きかどうかわからなくなってきてしまったけど、とにかく小さいときは世界にお母さんと自分しかいないみたいに思っていたんだって。ジュゼちゃんのお父さんは船乗りで留守のことが多かったから、そのせいもあるかもしれない。だけどお父さんが家に帰ってくると、魂が弱っているとかで、お母さんはお父さんに付きっきりになる。そういうとき、小さいジュゼちゃんはお母さんとの時間が減って不安になった。それだけじゃなく、お母さんが自分のことを見てくれていないと不満に感じた。食事を食べさせてもらえないとか、医院に連れて行ってくれないとか、そういうひどいお母さんじゃないんだよ。誕生日には大きな甜甜華を作ってくれるような、とても優しいお母さんだったけど、ジュゼちゃんはお母さんを独り占めできる時間が少ないと感じて、ずっとずっと物足りなかったんだって。それで、ジュゼちゃんはお勉強が結構得意で、それから同じ年頃の子の中では玄武体術も上手な方だったから、お母さんに見てもらいたくて得意なことを頑張るようになった。実際、お母さんにはいつも褒めてもらえたんだって。そのたびに、よし、やってやった、と思って、また頑張っていた。ジュゼちゃんは頑張り屋さんだったから、学院で特に何も頑張っている様子もない朋人のことは、内心ばかにしていたって。自分がとっくにできるようになっていたことをできないと言っている子のことも、自分みたいに頑張っていないからじゃないか、なんでそんなに子どもじみたことを言って先生たちを困らせるんだ、なんて思ってたんだって。自分も子どもなんだけどね」

ロッカは両手の拳をぎゅっと握った。

「ジュゼちゃんはぼくと話をしていると、ときどき混乱することがあったんだって。最初はただぼくとは相性が悪いとか、苦手な人間なのかもしれないって思ったらしいんだけど、それにしてはきらいだなって思わないから、変だなあって。最初に言ったかもしれないけど、ぼくはみんなが本当に思っていることを聞こうとしてしまう。そのせいで確かによく嫌われるんだ、相手を傷つけちゃうこともあるから仕方ないけど。でもジュゼちゃんは珍しいことに、ぼくのことをいやがりながらも、半年かけてぼくの意図のとおり、自分が本当に思っていることを探すっていうことに付き合ってくれた。そうしたら、ぼくとの会話でどうして自分が混乱するのかがわかった。ぼくがジュゼちゃんに何か質問すると、ジュゼちゃんはいつも正しいと思う答えを答える。ぼくはなんだか違うな、と感じてその理由を聞く。ジュゼちゃんはまた正しいと思うことを答えるんだけど、なんだかちぐはぐだったり、昨日とは別人みたいな考え方だったりしている。ぼくにそれを指摘されて、考えて、そうして出た答えがこうだった。お母さんなら多分こう答える、という返事をしていたって。なぜ?と聞いたら、お母さんを独り占めできるような子になりたかったから、いつもお母さんのことを観察していて、こうすればお母さんは嫌がらないとか、喜びそうとか、きっと自分のことを誇りに思うとか、いつもいつもそういうふうに考えていたら、いつの間にか自分自身がお母さんになってしまっていた。極端な話、これとこれはどちらが良いと思うかって聞かれたら、自分で考えるより先に、お母さんならどう考えるかと考える癖がついてしまっていた。大学に毎日来ていたのも、行かないという考えがなかったんだそうだ。ジュゼちゃんはお家から近くの学院に通っていたんだけど、面倒くさくて行きたくないときってあるよね。あぁ、ロッカはずっと寮館住まいだっけ。まあ、ぼくにはそういう日が多々あったんだけど。子どもがそういうときってどこのお家でも「じゃあ寮館を使わせてもらいなさい」と先生に相談されてしまう。ジュゼちゃんのお母さんはお父さんの看病ですごく忙しかったかもしれないから殊更だ。でもジュゼちゃんは寮館の話を持ち出されるのがすごくいやだった。自分の居場所はお母さんのそばでないといけなかったから。それで、お母さんには学院に行きたくないとか、そういうことが言えなくなってしまった。だから必ず朝早くに起きるし、休みたいなあと思っても絶対に休まない。大学も同じで、休んではいけないものなのだと思った。でもぼくは、ジュゼちゃんのお母さんが、娘に毎日大学に行って欲しいなんて考えたことはなかったと思うんだ。ここで勉強を教えてるならともかく、毎日来ること自体に何の意味もないからね。だんだんおかしくなっていってるんだ。お母さんを喜ばせることをしよう、お母さんが言いそうなことを言おうとしても、結局考えてるのはジュゼちゃん本人だから、なんだか変なふうになっていくんだ。考えた末に出した答えが、結局お母さんもジュゼちゃんも望んでいない答えになってしまう。だから自分は子供のくせに、変な大人みたいな考え方になっていたと思う、って言ってた。自分はずっとおままごとの大人だったって」

「ジュゼちゃんはぼくに質問をされて答えるとき、だんだん自分の魂に皮のようなものが付いていて、果物の皮と実みたいに分かれている気がしてきたんだって。なんだこれって思いながら、ぼくとの会話を続けていたら、だんだん皮がべろっと剥けてきて、よく見たらそれはお母さんのためだけに作られた仮の自分だった。それがやっとわかった。だから今までの自分はほとんど自分ではなかった。少なくとも、自分が本当はどう思うかということと、自分がどう考えるかということ、この二つは今までろくにしてきていないから、今まで聞かれて答えたことは全部忘れてほしい、って、それを言いにわざわざ来てくれたらしかった」

「ぼくはもともと、ジュゼちゃんの本心みたいなものに触れた手応えを感じたことがなかったから、うん忘れる忘れる、って約束したんだけど、それよりすごいね、って。さっきの『自立は孤独にあらず』では自分のことは他人に聞けという話だったけど、そんなややこしいことをよく自分の力で気づけたね、たくさん考えて結論を出すのは根気がいるし難しいのに諦めなかったのもすごいって褒めた。そうしたらジュゼちゃんは嬉しそうに笑った。ちょっと両手を動かしながら。勝手に体が動いてる感じだった。ジュゼちゃんはぼくの集めた子たちを見ていて、最初は子どもじみた子ばっかりだと思ったそうなんだ。でもみんな、ぼくに何か褒められたとき、本当に嬉しそうだなって思った。すぐ歌うし、すぐ踊る。ああ、白の国の人は青の国の人と違ってあんまり踊らないんだよ。全然踊らないわけじゃないけど、どっちかというと歌う方が性にあってるみたいでね。ジュゼちゃんもあまり身体が勝手に踊りだす、というような経験はしたことがなくて、そういえば、お母さんや先生に褒められたときも、なぜかいつも『よし』って思っていたんだって。それって本当に嬉しいという気持ちなのかな、そういえば嬉しくて歌うってことも、あまりないなって。自分が褒められたとき感じる喜びに似た気持ちの正体は、合っていて良かった、これで間違っていなかった、という気持ちじゃないか。何が『合っていた』のか。周りの子たちを観察しながら、ぼくのことも利用して、少しずつ少しずつ考えて、ジュゼちゃんがやっとたどり着いたのが、お母さんに見て欲しい、という気持ちだったって。小さい頃からずっとずっと抱えている気持ち。褒めてもらうのは、その一瞬だけはお母さんに注目してもらえるから、間違いなく嬉しいことなんだ。だからこそ、先生や他の大人から意図せず褒められると戸惑ってしまう。ジュゼちゃんが欲しいのは彼らからの賞賛ではないし、そもそも物心ついた頃からずっとジュゼちゃんは『お母さんの皮を被った仮の自分』だったからね。この辺りは抽象的な会話になってきちゃって正確な表現は忘れたけど、お母さんのための自分ではなく、自分のための自分を褒めてもらう方がきっと嬉しいと思う、というようなことを言ってた。難しいけど、ジュゼちゃんが今まで褒められたときにあまり嬉しくなかったというのは、きっとぼくが、兄さんがこう言ってたよと兄さんの真似をして、うんうん、やっぱりきみの兄さんはすごいねって褒められるような、そういうことに近かったのかもしれないね」

「おれはちょっと違うと思う」

ロッカが小さく呟くと、ユノンは口を閉ざした。しかし、ロッカはすぐに口を開くことができず、沈黙してしまう。しばらく互いに無言のままだったが、なぜかユノンから「ちゃんと待っているから急がなくていい」と言われたような気がして、ロッカは焦らなかった。

「……おれ以外の誰かを褒めてるんじゃなくて。もっと……空振りな感じだと思う。おれのことを褒めるのに、おれの頭の上の、何もないとこに向かって褒めてる感じ。全然おれは褒められてる感じがしなくって、いや、やっぱり、なんでもない。違う。うまく言えないからいい」

「ムウ」

「こんなの全然ムウじゃない」

「そう?」

「そうだよ」

「褒められても嬉しくないし、褒められなくても構わない、という気持ちが、ほんの少しだけわかった気がする。そういうふうに言われたって、どうせ後には何も残らないのにって戸惑いと、虚しい感じ。この人は何もわかってないという苛つきと、自分のことをわかってもらえていないという寂しい気持ちもあるかもしれない。でなければ、そうだなあ」

「いいって、もう。……そんなにいろいろは考えないと思うけど、まあまあそんな感じだろ」

話題を変えたくて、ロッカは気になっていたことを聞いてみた。

「そのあとジュゼちゃんはどうなったの?」

「大学にはあまり来なくなったかな。自分が本当はどんな人間なのか知りたくなって、急に忙しくなったみたい。彼女の通っていた学院にすごく良い先生がいて、ぼくと話さなくなった代わりにその先生といろいろな問答をしてると言ってた。付き合いが長い先生の方がぼくなんかよりずっと親身になってくれるだろうし、それはとても良い方法だったと思うよ。ぼくが大学にいる間はときどき話を聞かせてもらったけど、皮を脱いで世の中を見てみたら、お母さんと自分が全然違う人間だっていうことがわかったらしくて、なんでも新鮮に感じる赤ん坊になったみたいだって笑っていたよ。あと、ぼくにはざっくりとした違いしかわからなかったんだけど、本人は服の趣味まで変わってびっくりしたって言っていた。確かにちょっと色鮮やかな雰囲気に変わったかな、朱の国風というか。大きい刺繍の入った帽子をかぶったりね」

「……あれ?その子って魂が弱ってたんじゃなかった?」

「最後に会ったときにはもう治ってたよ。これは推測だけど、お母さんの皮を被せられた魂は窮屈で仕方なくて、本物の中身はここにあるぞって長年訴えていたのに、なかなかジュゼちゃんに気づいてもらえなくて、それで疲れちゃったんじゃないかな。お父さんの件も影響はしているんだろうけど、ぼくたちの魂って結構自分本位だと言われているんだ。大切な人が弱っている姿を見て自分も弱ってしまう、ということはもちろんあるけど、自分の良くないところについて悩んだり、自分で自分を責めたりするのが最も弱りやすい。ジュゼちゃんの場合は、自分よりお母さんの考えることやお母さんの気持ちばかりを優先していたでしょ。無意識とはいえ自分の本心を押し黙らせていた期間が長かったから、それでへとへとに弱ってしまったんじゃないかな。だから皮の内側の自分の本心の存在に気づいてからは、本当の意味で自分のために行動できるようになったから、伸び伸びと過ごせるようになった魂は安心して、それだけで治っちゃった」

「自分でそんなにたくさん考えて、それでも本心とお母さんの皮が別だって気づかなかったら、ずっとずっと魂が弱ったまま生きていかなくちゃならなかったの?」

「ぞっとする?」

「するよ。だって世の中には多分、それと同じような人っているだろ。全員がそうやって自力で解決できる気がしないんだけど」

「じゃあ、ロッカはジュゼちゃんの話を覚えておいて。いつかそういう人かもしれないって人に出会ったら、ロッカがジュゼちゃんの話をしてあげて。もしかしたら、少しはその人の助けになるかもしれないからね」

「わかった。なるべく」

ロッカの返事を聞いてユノンは少し微笑み、立ち上がった。

「そろそろ夕飯だね。さ、行っておいでロッカ。いろんな話をあれこれしすぎてしまったから、さすがのおまえでもくたびれただろう。ぼくは少し星を読んでから追いかけるよ」

ロッカは無言のままユノンに従い、早足で寮館へ向かう。ユノンが最後に微笑んだとき、やはり少し、トキノの笑い方に似ていると思った。

その後、ロッカが食事を終え、後片付けを終えてもユノンは食堂に現れなかった。朝になってからそれとなくサン先生に尋ねると、少しのつもりが星を読むのに夢中になり、だいぶ夜が更けてから食いっぱぐれたことに気づいて、学院の敷地内に借りている自宅へ寝に帰ったらしい。ロッカは今まで気づかなかったが、ユノン先生はだらしないところがあるとのことで、彼が食堂に行き忘れるというのはよくあることなのだという。今では何かユノン先生が余計なことを言ったりすると、シャート先生などから「それより今日はご飯食べたんですか?」と嫌味のように言われてしまうのだそうだ。



  *  *  *



早朝、いつものように調理場へやって来たアサンは目を瞬かせた。最初に目に入ったのは火にかけられた大鍋だ。次に目に入ったのは、いつも自分が荷物置きにしている椅子に所在なさそうに座っているロッカの姿だった。

「どうした」

アサンは以前から、ロッカは少し繊細な子だと感じていた。不安定な自分の感情に振り回され、押し潰され、その都度もがき苦しんでいるようなところがある。だから今日も何か急ぎの相談事があるのだろうかと心配になったのだが、ふてくされたような顔のロッカは「うーん」と少し間延びした調子の声で唸った。

「どうしても鍋しかわかんなかった」

「何がだ」

「たまには朝食作るの手伝おうと思ったんだけど、これ以外に何したらいいかわかんなかったんだよ。余計なことしたらかえって迷惑だろうしさ」

アサンはぽかんとしてロッカを見つめ、次に、家の畑から持ってきた野菜に視線を移した。

「じゃあ、これ。もう外で洗ってきたやつだから、皮むきを頼む。南瓜はやらなくていから。そら豆が最初で、あとは堅そうなやつから柔らかいやつの順に。でもまあ、適当でいい」

ロッカは頷きながらかごに入った野菜を受け取る。アサン自身は蒸しパンの準備をするようだ。

「ロッカおまえ、この鍋の水の量」

「あっ、量?だめだった?」

「ムウ!おれが自分で入れたのかと思うくらいちょうどいい」

そう言うと、アサンは振り返ってロッカの両頬をこねくり回した。

「ムウムウ〜」

「先生みたいなことしなくていいって」

「それくらい完璧だってことだ。誰かから聞いたのか?」

「いや、そうじゃないけど。毎日見てるわけじゃないけど、おれが見るときはいつも同じくらいの量だし、多分これくらいだろって、適当に」

「おまえそんな、賢い子みたいなことを……いや賢い。おれは気づいていた、ロッカは賢い」

また両頬に手が伸びてきたので、ロッカはそれをさっと避け、アサンから少し離れた場所に移動した。

「この量の水を沸騰させるのはものすごく時間がかかるんだ。先生たちなら魔法であっという間に沸騰させられるかもしれないけど、おれの使える魔法では鍋にかかりきりになるからかえって効率が悪くて。でも湯が沸かないことには手がつけられない作業がたくさんあるから、鍋の用意がしてあるのは一番嬉しい。ありがとうなロッカ」

「大袈裟だな、それくらいで。……ちなみに、おれが他にできることって、どんなのがあった?」

「そうだな……いや、だいたいおれが野菜を持ってくるからな。それを見なきゃ何を作るかもわからないだろうし、ロッカにもできそうなことなことは思い当たらないな。それより、おれが来るより先に来るという発想だけで博秋号並みだぞ」

「本当かよ」

「本当だよ。今までそんなやついなかったし、おれが二人いたら便利だろうなと思うことはあるけど、もう一人のおれでも思いつかないんじゃないか。楽しくお喋りしながら二人一緒に来そうだろう、おれは」

その様子を想像して、ロッカはふふっと笑った。

「前から調理場の手伝いしてみたかったんだけど、アサンがすごすぎて、いつもつけいる隙がないから、おれが先に来るしかなかったんだよな」

「何だ、つけいる隙って。玄武体術みたいに」

「料理に玄武体術大会みたいなのがあったら、アサンは青武王だな」

「青龍体術みたいに魔法禁止の大会があればいいけどな。まあ青武王はさすがに無謀だけど」

「そんなことない。夏学生の大会だったら全然無謀じゃない。てきぱきっていうか、いろんな料理をいっぺんに作ってるのっていつ見ても格好いいし。おれもちょっと憧れる」

「そうか……ロッカ、おまえなんだか今日、元気いいな。してみたかったのか、料理」

ロッカは少し赤面し、うん、とはぐらかすように小さな声で返事をした。正直なところ、憧れる、いう言葉が自分の口から飛び出したのは、ロッカにとっても予想外のことだった。しかしアサンに対しての賞賛に偽りはないし、媚びるために出てきたという気もしない。確かにロッカの本心から出た言葉だ。

「じゃあこんどからはロッカが何か手伝えるようにしておくよ。おまえたちから見ればおれはいつも忙しなく見えるらしいけどな、いつでも言えよ。ロッカの好きなときに」

「うん。ありがと」

そんなつもりはなかったはずなのに、最初からこうなることが決まっていたかのように、こんどは自然と礼の言葉が出る。蒸しパンの作業がひと段落ついたのか、珍しくアサンが動きを止めて、ロッカの方を見る。

「ユノン先生と何か話したか?」

「えっ」

ロッカは思わず手に持っていたそら豆を取り落とした。

「まあこの前話はしたけど、話したっていうか、ただずっと話を聞いてただけ、だな。でもアサンの話はした、少しだけど。褒めてたよ。ユノン先生は誰でも褒めそうだけど」

「ロッカも褒めてもらえたか?」

「そこそこ」

「……あのなロッカ。おれもな、前からロッカは学院で一番……」

そこでアサンは言葉を止めてしまった。なぜか神妙な顔をしているので、続きを聞くのがなんだか怖い。

「なんだよ」

「あぁ、やっぱり思いつかない!ごめんな!」

「なんだよ!?」

「いや、おれだってロッカは良い子だと思うさ!たとえ暴れん坊でもな、性根の悪いやつじゃないのは絶対にわかる。先生たちだってわかってる。でも、褒めるのって案外難しいものなんだなぁ」

器用に包丁の柄を弄びながら、アサンはため息をついた。

「ちなみにユノン先生にはなんて褒められたんだ?」

「アサンのことをなんて言ってたかってこと?」

「おれのことじゃない。ロッカを。おまえがどう褒められたのかを知っておきたい」

どうやら、ユノン先生とアサンの間で交わされた会話、つまりロッカには知るよしもない道筋の話がありそうだ、と直感したが、一応素直に答えることにする。

「いや、褒められるっていうほど褒められてない、本当に。ユノン先生よりは裁縫が上手いとか、ユノン先生よりは野菜の皮がむけるとか」

「それだけか」

「うん。おれよりもアサンの方がもっとちゃんと褒められてた気がする」

「……あれ?」

アサンは急に眉間に皺を寄せて考え込んでしまった。

「なんで?なんか変だった?」

「いや……変じゃないけど。どうも、おれが思っていたのとは違ったみたいだ……」

アサンが何を思っていたのかは知らないが、最後のそら豆を手に取りながら、ロッカは尋ねる。

「よくわかんないけど、とにかくアサンがおれのことをどうにか褒めようとしてくれてたのはわかった」

「どうにかって言うなよ。おれがとてつもなく褒め下手なだけだから」

アサンはそう言いながら、くしゃりとロッカの前髪を撫でた。


  *  *  *

 

ユノン先生が食堂に到着したのは、全員に朝食が行き渡ろうかという頃だった。

「ユノン先生!そこ!そこに座ってて!」

彼の姿を見つけたアサンが、大きな声で叫ぶ。普通は教師でも子どもでも関係なく、棚から自分用の皿を取り出して料理をもらいに行くのだが、アサンに指示されたため、この日はロッカがユノンの分の食事を適当によそって席まで届けた。

「おはようロッカ。あれ、ちょっと眠そうだね。よく眠れなかった?」

「寝たよ。寝不足はユノン先生の方だろ。昨日も一昨日も寝る前にユノン先生が外に突っ立ってるの見えたけど」

「星読みはきりがないから仕方ないの。なにせあの量だもん」

「全部読めるわけないのに全部読もうとしてるって、サン先生が呆れてた」

そうやってしばらく言葉を交わしていると、すぐにアサンが追いついた。両手に二人分の食事を持っているのは、自分とロッカの分だろう。アサンはいつも充分な量の朝食を用意してくれるが、全員の配膳までは面倒を見ない。小さい子の世話を焼くことはあるものの、彼は誰よりも早くから起きて働いているので、作り終わる頃には腹が減ってしまうのだ。だから作り終わるとさっさと席に着き、自分の作った温かい朝食をゆっくりと味わう。今日はユノンを待っていたのか、彼にしてはいつもより少しだけ遅い朝食となった。

「ユノン先生、おれやっぱりだめだった。全然思い浮かばない、一番が」

ユノンの隣の席に着きながら、アサンは矢継ぎ早にそう言う。アサンがもう一人分の食事をユノンの前の席に置いたので、ロッカは黙ってそこに着席した。

「一番好きってやつだね。意外だね、照れちゃったの?」

「一番好き?」

ロッカとアサンの声が重なった。

「おれは、一番足が速いとか、一番髪が綺麗とか、何かそういうのだと思って……!四日くらいずっと、めちゃくちゃ考えてた」

アサンはユノンを睨むような険しい顔をする。なぜか文句を言うような口調だった。

「そっかあ。ぼくの言い方が悪かったのかな。その言い方ももちろん良いんだけどね、思いつかなかったら一番好きだよとか、一番特別だよとか、一番可愛いよとか、そんなのでよかったのに」

「嘘だろう!あぁ、おせっちん!おれはそれだったら言えた!他の誰が恥じらって言えなくても、おれなら!ここぞというときにビシッと言えたのに!」

「だろうなぁと思ってね。だからアサンにぴったりだと思ったんだけど」

いつもは一口一口味わいながら丁寧に食事をするアサンが、珍しく乱暴に蒸しパンをスープに突っ込んだ。ちぎってもいない蒸しパンを、その後どうやって食べるのだろう、と思ったが、アサンもそれに思い至ったのか、ややあって蒸しパンをスープの中から救出するように摘んで取り出し、仕方なく野菜炒めが盛られた皿の上に置いた。

「もう台無しだ」

 

アサンの言葉に、ユノン先生が深く頷く。

「せっかくふかふかのパンだったのにねえ。取り替えてあげようか?」

「パンの話じゃなくて……いや待って先生、いいの?取り替えてほしい」

ユノン先生とアサンは少し相談したのち、野菜炒めごとパンを交換することで合意したようだ。ロッカは少し甘い味付けの山羊チーズを蒸しパンに塗りながら、二人の様子を無言で眺めていた。

「それで、ロッカはアサンから何て言われたの?」

手がスープで汚れることにも、顎のあたりや教員の制服にスープが滴り落ちることにも構わず、びしょびしょのパンを美味しそうにかじりながらユノンが尋ねた。

「何も言われてないけど、アサンが頑張っておれのことを褒めようとしていたのだけは伝わった」

「え?それだけ?じゃあ今のぼくたちの会話ってロッカに聞かせたらだめだったんじゃない?ほとんど種明かしだったよ」

そうだけど、とアサンがふてくされる。

「こいつは頭が回るから、さっきおれがうまいこと言えなかった時点でもうだめなんだ。そのあとにどんなにうまく言い繕って褒めたって、なにか変だって勘付いて、素直に聞かないやつだ」

「なるほどねえ」

ユノンは頷きながら、服の袖を使ってスープのついてしまった顎や首を拭いている。

「じゃあせっかくだから、ロッカにも同じ話をしよう」

ようやく二人の話の本筋が見えそうな気配になり、ロッカは思わず頷いた。

「この前、ぼくが大学で子どもたちを集めて研究の手伝いをしてもらっていた話をしただろう。いろんな子がいてね、ぼくはいつも彼らが何を考えてるんだろうって観察していたんだけど、まあ、あんまり時間がないから結論から言うと、何かしらの不満や不安を抱えている子には、自分が特別な子だと思わせてあげると安心しやすいみたいなんだ。お父さんやお母さんでもいいけど、その子にとって大切な人や好きな人。そういう人から、きみが一番だよ、特別な子だよって繰り返し言われていると、だんだん落ち着くことが多かった。すべての子に効果があるとは言えないけど、なかには一回言うだけで満足する子もいた。その言葉が必要そうな子には、必要そうなときにきみのことが一番大好きだよって言う。もしその場に、その子ほどではないにしても、その言葉が必要そうだなと思う子がいたら、後からこっそりその子のところへ行って、内緒だけど本当はきみが一番だよって言ってたなあ、ぼくは」

「先生、それは恋人の話じゃないんだよな」

「これが恋人の話だとしたら、おまえたちには死んでも言わないよ」

まあでも、と、南瓜とチーズを混ぜながらユノン先生は呟いた。

「誰かに一番大切な存在だと明言してほしい大人も少なくはない。子どもの頃からずっとそれを渇望していたのか、それは知らないけど。自分を絶対に許してくれる他人とか、自分を絶対に否定しない他人とか、そういうのが欲しい人は、普段から自分で自分のことを許せなくて、否定ばかりしているのかもしれないね。まあ、機会があったら観察してみよ。で、だいぶ話が逸れたけど」

最初から聞くに徹していたロッカはそろそろ食べ終わりそうで、残りのパンを口いっぱいに含んでいたが、目線で話の続きを促した。

「ロッカはいつもいつも歌ったり踊ったりしてただろう。ぼくも新米なりに気になっていたんだけど、ちょうどアサンと話しているときロッカの話題になって、その褒める手を使おうとぼくが提案したんだ。ロッカはぼくよりもアサンから褒められたほうが喜ぶと思ったし。まあ、そういう企てをしてたんだ、という話だよ」

「ふうん……べつに、いいんだけどさ。話の途中で、もう少しおれのために、どこか誤魔化して聞かせてくれるのかなって思ったのに、本当に包み隠さず種明かしするから、いまのおれはどっちかというと、それにちょっとびっくりしてる」

ロッカは神妙に姿勢を正し、率直な感想を述べた。そのロッカの様子がおかしかったのか、アサンがふふふっと笑い始める。大声で笑っているわけではないのに、その姿を見ていると、なぜかロッカまでじわじわとおかしくなってきてしまう。堪えきれず、ロッカは吹き出してしまった。

「先にこの手を諦めたのはアサンの方だけど、正直ぼくもロッカの顔を見たら、べつに種明かししてもいいなって思ったんだ。これはロッカには必要ないなって」

「ロッカ。ロッカ、おまえはおれの特別なやつだよ」

ふざけてアサンがそう言ったが、ふざけていてもしっかりと格好良いのがアサンらしい。

「もう必要ないって先生が今言ってるのに!」

「でも本当はユノン先生もすごく特別なんだ」

ロッカがさらに大きな声で笑うと、アサンも再び笑いだした。

「おまえたちはそうやって……すぐに人の経験と努力で培った技術を玩具にしちゃうんだから。アサン、それぼくがよく使うやつなんだからね、小さい子たちに言わないでよ」

食事を終えたユノンは立ち上がりながら、たしなめるような口調で言ったが、顔は笑っているように見える。空になった食器を手に歩くユノン先生の制服に、もうスープの汚れはひとつも見当たらなかった。


  *  *  *

 

強かった夏の日差しも幾分か和らいできた頃である。その日は午後から恵みの雨が降った。暑さも寒さも、雨も風も雪も、すべて恵みには違いないのだが、久しぶりに降る雨のことをそう呼ぶ。知狎がときどき雨を降らせるのを忘れていて、罪滅ぼしに短時間、強めの雨を恵むのだそうだ。

学院の敷地の東側には正門がある。ひとつの町のように広大な学院の敷地は、利便性や地形上の問題もあって、塀でぐるりと囲ってしまうことができない。そのため、門以外の場所からも出入りはできるのだが、門自体が目印となるため、家族の迎えを来るのを待つ子はこの付近で待つことが多い。そのためなのか違う用途があるのかは不明だが、学院の東端の校舎には、壁がなく屋根だけが大きく突き出した部分がある。雨の日はそこで迎えを待つ子が多かった。

ロッカはもちろん、そこで迎えが来るのを待っていたのではない。ロッカが待っていたのはユノン先生だ。ユノン先生の仕事が終わり次第、最近学院にやってきた妹分と弟分のために、細々とした日用のものを買いにいく約束をしている。頃合いを見計らって少し探したのだが、姿が見当たらなかったので先に正門方面へ向かうことにした。特に指定がなければ正門で待ち合わせるという、学院独自の暗黙の了解である。今日はその、東の校舎の屋根の下に、トキノもいた。彼の姿を見つけた瞬間、ロッカの口からあっと声が出た。彼と二人きりになるのは、記憶の限りはおそらくこれが初めてだ。トキノはまだ七歳で気弱そうだし、対するロッカはそれより三歳も年上で、控えめな表現でも暴れん坊だとか言われているし、怖がられるのではないかと思ったが、予想外にそのような気配はない。

「ロッカ」

合っているか確かめるような呼び方だったので、呟くよりは少し大きめの声で、うん、と答えた。

「今ちょうどね、笛の練習しようと思ってたんだけど、ここで吹いてもいい?別のところに行ったほうがいいなら行くよ」

「おれは気にしない……けど。だいたい、別のところに行ったら家の人が来たとき探せないぞ」

トキノはありがとう、と喜びを表現するように笑った。ああ、大人を惹きつけるような、あの笑顔だ、とロッカはまた思った。だが、今日はその笑顔に妙な引け目のようなものを感じない。そもそも、トキノには敵わない、というような一方的な敗北感は、とっくにどこかへ消えてしまっていた。

トキノの取り出したのは、琺瑯のようにつるりとしていそうな白い横笛で、以前に見た玩具のようなものではなかった。ロッカは楽器に詳しくなかったが、きっと出せる音が増えたのだろうな、ということくらいはわかる。トキノは器用に両の手の指を操って、ロッカの知らない曲を奏でた。ぼんやりと聞いているぶんにはどこかを間違えたのかどうかもわからないが、同じ曲を何度も、何かを確かめるように丁寧に吹いている。

「練習熱心だな」

思わず言葉がこぼれ出てしまった。本当に感心したからなのだが、トキノが驚いたような顔で振り返ったので、なんとなくバツが悪くなってしまった。

「いや、おれは同じこと繰り返してやるのは飽きるし苦手だから、ちょっとすごいなって思って」

「そうなの?ロッカでも苦手なことがあるんだ」

「はあ?あるに決まってるだろ!毎日増えてくくらいだ、得意なことは全然増えないのに」

「そうなの?十歳の子ってなんでもできると思ってた。ロッカはごはんを作るお手伝いもしてるから、他の子より大人みたいに見えるの」

そう言われると、ロッカもわからないでもない。自分より年上の子は、それだけでとても優れているように見えることがあるし、ロッカも七歳の頃は特にそうだった。しかも、調理場でてきぱきと働いている子はなぜか大人っぽく見える、という気持ちは共感できるし、深く理解することができた。

「ぼくね、ときどき、今日はお迎えが来ないんじゃないかって思うことがあるの。本当にときどきだけど」

トキノは笑った顔のまま、少し声を潜めて言った。

「ぼくは珠珠なんだけどね、やっぱり間違えちゃった、トキノじゃなかったって、今のお父さんたちから言われたらどうしようって、いろいろ悪いことを考えちゃうことがあるの。それで、今日はそれだったの。だからロッカが来てくれて、いやなこと考えるの忘れられたから、よかった」

「珠珠でも、そういうこと……」

まあ、考えるか。少し落ち込んでいるときや、いやなことがあった夜、独りぼっちのとき、確かに自分だったら同じようなことを考えそうだ、とロッカはひそかに納得する。

「ぼくにどこか悪いところがあって、こんな珠珠ならもらわなきゃよかったって思われるのはいやだな、とか。考えたら止まらなくなるから」

「絶対ないけど、もし、万が一、そう言われてお前が家族を失くしたって、おまえは寮館でおれたちと一緒に暮らせばいいんだから、心配することない。最低でも、独りになることはないんだから」

トキノはきょとんとした顔でロッカを見つめた。

「よく言うだろ、冬児は親を選べないって。だけどよく考えたら親だって子どもは選べないし、選べない同士だろ。だから、もしかしたらトキノじゃなかったと思われることはあるかもしれないけど、選べないからこそ、世界のどこかにはトキノみたいな子を欲しいと思ってる家族がいるかもしれない。いやな想像が止まらなくなったら、胸を張って『だけど自分は理天で一番笛が上手い子どもだ』とか『自分は世界で一番笑顔が可愛い』とか叫んでさっさと寝ちまえ」

トキノは気圧されたように少しの間黙ったが、ふと頭に浮かんだらしい疑問を、控えめにロッカにぶつけた。

「笑顔が可愛いっていうのは、どういう意味があるの?」

「そのままだよ!おまえすごく可愛いんだよ、笑ってる顔が!全然愛想笑いじゃなくて心の底から笑ってる感じがするんだよ!」

そうかなあ、と言おうとしたのだろうが、最後まで言い終えないうちにトキノは笑い出してしまった。おかしくておかしくて、お腹が苦しい、という笑いかただった。ロッカは自分の顔が紅潮しているのがわかったが、どうせトキノはろくにこちらを見ていない。

「その笑いかたは初めて見たけど、やっぱりおまえの笑った顔は学院で一番可愛い!」

ロッカは一息でまくし立てるように叫んだものの、言い終えるとしわじわとおかしくなってきた。我ながら、いったい何を言っているんだろう。笑顔が可愛いなんて、きざな恋人みたいな恥ずかしい台詞を誰が言ったんだ?いや、他でもないこの自分が言ったのだ。

結局トキノと二人で腹を抱え、ロッカはしばらく笑いころげてしまった。雨音はとっくにその声にかき消され、もうロッカの耳には聞こえなくなっていた。