凱歌のロッテ 歌集

創作ファンタジー「凱歌のロッテ」短編小説を公開中

【小説】春の大祭〈前編〉

朝と昼の間頃、藤京学院めがけて流れてきたやたらと大きな流れ星は、どうやら他の学院からの贈り物だったらしい。

というのも、なかなかお目にかかることがないほど巨大なその流れ星には、返事もいらぬような挨拶程度の連絡しか書き込まれていなかったのである。ありがたく頂こう、と誰かが言うと、あちこちから歓声が湧き、それにいくつかの歌声が続いた。子どもたちは外へ飛び出し、数名の教師らがそれを追いかける。休日前で、ただでさえ学院内には浮き足立った雰囲気が漂っていたが、さらに思いがけずこのような僥倖が飛び込んできたのだ。まるで皆の喜びが同時に爆ぜたようだった。こうなってしまえばもう、喉の奥から歌が溢れ出てくることも、自然と身体が踊り出してしまうことも、すぐには止められないものである。

 

第四月の三日目は穏やかな晴天だった。雨は昨日降ったばかりだから、おそらく明日も晴れるだろう。なにしろ四月四日は春の大祭『鹿祭り』である。過去二千年の記録を見ても、この日に大雨が降ることは滅多にない。多くの人々が勉強も仕事も放り出して歌い踊り、時たま道端で買った菓子をかじってまた踊るのだ。心身ともに逞しい東世の人々が、多少の雨でその楽しみを諦めることはないが、それでも大祭のような特別な日は晴れているほうが喜ばしい。

食べやすく刻んだ流れ星をどっさりと皿に盛り、迎賓舎に滞在してる客人のもとへと運ぶ役割は、教師のフィオロンが買って出た。

寺院ならばともかく、学院内にわざわざ客人用の宿舎をあつらえているのは藤京学院だけかもしれない。校舎に比べれば小さく簡素な造りの迎賓舎は、五年程前、藤京学院の端にひっそりと建てられた。来客が気兼ねなく休めるよう、子どもたちはあまり近寄ってはいけないことになっている。

名ばかりは迎賓と冠しているものの、ここに宿泊する者は各地の寺院から藤京を訪れる『研究士』の肩書きを持つ僧尽ばかりだ。藤京区を訪れる研究士は数あれど、藤京学院に用のある者はごくわずかで、文字どおり手指で数えられる程度しかいない。そのため、建物内に造られた客室はわずか四つである。見栄えは悪くなく、決して粗末でもないのだが、こじんまりしていて手狭であることは否めない。そのためなのか、フィオロンや他の教師たちはもともとこの建物を『迎賓館』と認識していたのだが、いつの間にか研究士らの間で「迎賓舎」という呼称が共有され、そちらの方が広まってしまった。もはや、研究士はもとより、子どもたちや教師でさえ迎賓館と呼ばなくなって久しい、という体たらくである。

フィオロンが迎賓舎の二階へ上がってゆくと、簡素な調理場を兼ねた大広間で、数名の研究士が各々寛いだ格好で話をしている最中であった。彼らの様子に普段と変わったところはないが、妙に人数が多いように感じる。フィオロンは、茶器などが収められた背の低い棚の上に、たった今運んできた大皿をどんと置きながら「どうも」と軽く挨拶をした。

「珍しくたくさん集まっていますねえ。いま部屋を使っているのはあなたがただけですか?」

そうだと頷いたり手を挙げて応えたのは、遠い他国の寺院から派遣された研究士、朱の国のシューランと、黒の国のソンテであった。青の国の最西部、理天区から来ているエルメとメルの姉弟は、どちらも口いっぱいに菓子を含んでいるためおとなしく沈黙している。この姉弟はいくつ空き部屋があるときも二人で同じ部屋を使う。迎賓舎に四つある客室のうち、三部屋が埋まっている状態か、と、フィオロンは適当な容器で湯を沸かしながら計算した。

「しかし、そろそろジュゼ法師もあちらから戻って来るはずだ」

「他にもいらっしゃるのですか」

シューランの言葉を聞いて、フィオロンは思わず大声で聞き返してしまった。常ならば、各地の研究士が一堂に会する機会はそうそうないのだが、彼らにとっても大祭は仕事を区切る目安となるのだろう。そういえば、エルメは少し前にジュゼと鹿祭りに行く約束をしたとはしゃいでいたし、シューランも大祭当日は幼い子どもと過ごせるよう、青龍の宿で家族と合流する手筈であるとフィオロンに語っていた。

「ソンテ法師は明日お休みなんですか?玄武の都って主都だし、神僧は大祭の日ってなにかと忙しそうですけど」

メルに尋ねられたソンテは、切れ長の目を細めてにやりと笑むと、右手に持った煎花茶の器を左右に振りながらゆっくりと頷いた。体の動きに合わせて煎じた花の香りが漂うものだから、まるでソンテの喜びが芳しく溢れ出ているようである。

「さすがのおれも、春の大祭では毎年毎年あれやこれやと使われて、少しばかり鬱憤が溜まってたから。今年はちょっと長めの休みをぶん取ってやった。明日は可愛い後輩がたくさんお勉強できるだろう」

「長いお休みをもらう時は、おれたちと同じように寺院へ申し出るんですか?」

再び、メルが問う。

「各国で神僧の数にばらつきがあると聞くし、他国では違うかもしれないが、おれのところでは自分の要望を通すためにまず、どうにかして知狎をねじ伏せないといけない。それから知狎の許可を得たから休むぞと寺院に申告する流れだな。少なくとも北苑ではそうする」

ソンテは北苑の知狎から選ばれた神僧であるが、それと同時に、世界中を飛び回って様々な調査をおこなう研究士でもある。それだけでもかなり独特な立場の僧尽であるが、ソンテの場合は玄武体術がめっぽう強く、ここ数年は黒武王として名を馳せている。もともと玄武体術は黒の国が発祥であるため、黒武王の称号は他国の武王らからも一目置かれる特別なものだ。ソンテは今秋に二十四歳となり、天上武王ジュゼとは一歳しか離れていないため、人々からは「不遇の世代」と呼ばれる一方「ジュゼに勝てる者がいるとしたらソンテだろう」と期待もされている。とにもかくにも、黒の国で最も有名な人物と言って差し支えない。

ソンテはまるで強い酒をあおるように煎花茶をくいっと飲み干すと、常時より少し穏やかな表情で、ふうと満足げなため息をついた。

「明日は飽きるまで寝たあと青龍あたりをうろつくつもりだから、シューラン法師とはまたお会いするかもしれませんね」

「ああ。法師の邪魔はしないが、もしばったり会うことがあったら息子に挨拶をしてくれると嬉しい」

フィオロンは棚の奥から西世風の陶器のポットを取り出し、一掴みした茶の葉をパラパラとその中へ入れながらシューランに尋ねた。

「法師、ご家族との待ち合わせは明日ですか?」

「その予定だ。明日の朝まではこちらで厄介になる」

「今さっき戻られたばかりなのに魂がお強い。信じられないくらい元気な御仁ですね」

賞賛の言葉に反し、特に感心したふうでもない静かな声でソンテが呟いた。沸騰した湯をポットに注いで蓋をすると、フィオロンはエルメとメルの方へ向き直る。

「おまえたちは……この後どうするんでしたっけ。理天へ帰るにしてはのんびりしていますね」

「うん、今年は帰らないんだ。おれはこのまま一泊して、早朝に紫錦へ行く」

「紫錦ならすぐ着くでしょう。そんなに早く出発するんですか」

鹿祭りは深夜までおこなわれるため、朝はわざと寝坊をし、夜更かしを楽しむのが一般的なのだ。

「祭りの化粧をするから早く来いって言われてるんだ。で、エルメはどうするんだって?」

メルは眉間にしわを寄せてエルメをねめつけたが、エルメは弟の不満げな表情などまったく意に介さない様子でふふっと微笑んだ。

「わたしはジュゼ法師がお戻りになってから決めるけど、今晩はここでお休みになるとおっしゃると思うな」

「いいなぁエルメ、ジュゼ法師とどこの鹿祭り行くんだよ」

「メルに言ったらついてきそうだから内緒!おにいにも絶対ついて来ないようにしてって言っておいたからな」

「おまえなぁ、なんでそういうことするんだよ!おれが未練がましく法師に付きまとってるみたいで恥ずかしいだろ!」

いつもの口喧嘩の時とは違い、二人とも口元が笑っている。もともと似ていない姉弟というわけではないが、明日が楽しみで仕方ないというときの笑顔は本当にそっくりだ。赤の他人ながら、フィオロンはこの二人を幼い頃からそれなりによく見知っている。先の晩冬、弟のメルがようやく十五歳の若秋となった。二人とも寺院に属して働くほど大きくなったというのに、子どもの頃と同じ幼気な笑顔ではしゃぐ姿を見ていると、フィオロンは妙に安心するような、なんとも言えず不思議な心地になってしまう。

「それよりフィオロン先生、その流れ星は理天のだろう。届いたばかり?」

エルメが先ほどよりもやや低い声でそう問うた。エルメとメルは、東鹿寺院所属の僧尽となった現在でも理天学院の寮館を自宅としている。もしや何か悪い報せがあったのか、と気がかりなのだろう。

「昼前に届きましたよ。でも要件というほどの要件は書いていなかったので、消さずにそのまま持ってきました。召し上がるときは各自で消してくださいね」

流れ星は用が済めばただの『おやつ』となるが、送り主から書き込まれた内容がいちいち頭にまとわりついては食べるのに邪魔となる。そのため、用事を読み終えて食用とする際は、流れ星に新たな魔法をかけ、送り主によって書き込まれた情報を忘れさせてやらなければならない。その行為を一般的に「消す」と言う。人並みの魔法が使える者であれば誰にでもこれを消すことが可能で、食べながら消すということさえ難しくはない。

向かい合って配置された長椅子の間には、楕円型の卓が置かれている。フィオロンはその卓上に、自分を含めた人数分のカップと、流れ星の欠片を山盛りにした皿を置き、自分はエルメとメルの間にぐいと身体をねじ込んで腰掛けた。フィオロンは長身のため体躯もそれなりに大きく、姉弟は狭苦しいと言わんばかりにもぞもぞ体を動かしている。

「さ、わたしも休憩です。お昼ごはんの後からずっと立っていたので疲れましたよ。それよりエルメ、よく理天の流れ星だとわかりましたね。見分ける方法があるならわたしにも教えてくれませんか」

「わたしもぜひ知りたいな」

細かく刻まれた流れ星を遠慮なく一掴みしながら、シューランがエルメのほうへ顔を向けた。

「いえ、理天学院から来たのがわかるんじゃなくて、ユノン先生が作った流れ星がわかるだけで。不透明で、根元だけ乳白色だけど全体は藍色です。これはもう細く切ってしまっているけど、大きな五角形の結晶がゴツゴツ付いてて、たまに少しだけ六角形が混じってる」

「もともとはどれくらいの大きさだったのだろうなあ。だいぶ大きかったのではないか」

何か興味をそそられたらしく、シューランは面白そうに笑みを浮かべながらフィオロンに尋ねた。

「少なくとも八梅……十梅近くあったかもしれませんねえ。人の頭よりずっと大きかったですよ」

一梅は文字どおり梅の実一粒程度の大きさを指す。人によって思い描く梅の大きさが異なるため、単位が大きくなるほど差異が出てしまうが、十梅は魔法の杖の長さ程度と決まっている。そのため十梅は一骨とも言う。実際は杖の長さにも二梅か三梅ほどの個人差があるのだが、それでも「二十個分の梅」より「二本分の杖」のほうがはるかに正確な長さを伝えられるため、三梅程度は誤差の範疇と片付けられる。

「ユノン先生の流れ星は大きくても小さくても必ず同じ色で同じ形だから、迷子になったら流れ星を落としながら歩いてねって言ってあるくらいなんです」

エルメはやけに神妙な顔でそう呟いたが、シューランは楽しそうに声をあげて笑った。

「それは良い考えだが、わたしなら落ちている流れ星を見つけたら拾って食べてしまいそうだな」

「おれもです」

「構わないんじゃないですか。流れ星を食べて辿っていけば迷子のユノン先生を見つけられるでしょう。その代わり二個か三個だけ食べてやめてしまってはだめですよ」

「では二個か三個で腹が一杯になったらどうすればいい?」

「腹が膨れていたって関係ありません。おれは流れ星が落ちているのを見つけたら儲けと思って拾いますよ。法師は流れ星が落ちていても拾わずにいられるんですか」

「わたしは息子に拾ったものを食うなと言ってあるからなあ。まあ、拾うだけ拾ってあとでこっそり食べればいいのか」

フィオロンとソンテはそうだそうだ、そうしようと頷き合ってから少し笑った。ひとしきり冗談でもない冗談を言い合ったところで「それはそうと」と笑った顔のまま首を捻ったのはシューランである。

「どうしたらいつも同じ形にできるのだろうか。わたしも流れ星を作ることはあるが、色も形も毎回様々だぞ」

シューランは右の手のひらを目線の高さに上げると、一度だけ「タン」と声を張った。朱の国の呪号である。すると、次の瞬間にはもう、一梅にも満たない小さな流れ星がころりとシューランの手の上に転がっていた。色は藤色に濃紅と薄紅が混じっており、尖った細長い結晶でできているように見える。珍しい色形というわけではないが、小ぶりとはいえ瞬く間に流れ星を作ってしまったシューランに感心し、全員が興味深そうにできたての流れ星を覗き込んだ。

「ほら、今日はトゲトゲしていてやけに赤い。薄紅や紫になることのほうが多い気がするんだが」

ソンテは何か思案するようにそれを眺めていたが、やがておもむろに口を開いた。

「充分な量の魔力を注ぎ続ければ同じ形の流れ星になる、というようなことを、どこかで聞きました。どの程度を充分な量と呼ぶのかはわかりませんが、要するに、うんと強い魔力で作ればいいんじゃないかと思います。ユノン先生が毎度毎度、神経質に魔力の量を調整しているというなら話は別ですが」

メルとエルメはほとんど同時に顔をしかめると、腕を組んだり足を組んだりしながら互いに顔を合わせた。

「いや、実際はどうかわからないですけど、おれには適当に作ってるようにしか、見えないというか」

「わたしもです。流れ星じゃなくたって、ユノン先生が神経質に何かを整えてるところなんて見たことが、ないような」

「おれもそうかなと思って。魔力が強い人間が作ると、工夫を施さずとも勝手に同じ形になるんじゃないか。たぶん」

ソンテはそう言って自分も脚を組むと、細く刻まれた流れ星をパラッとつまんで手のひらに乗せ、確認するように少し舐めた。流れ星を読むときに舌で触れるのは、寺院育ちの僧尽によく見られる癖である。寺院は昔から働き手が多く、情報を共有しなくてはならない者の数が多い。そのため、万が一必要な者へ行き渡らなかった際に分け与えられるよう、流れ星の欠片を渡されてもしばらく食べずに持っておくのだ。口に含む前に舐めるのはその名残で、寺院にはそのような古い慣習がいくつかあるらしい。フィオロンもソンテと同様寺院育ちだが、幼い頃身についたこの所作はもう身体が忘れ始めているようで、最近はすぐに食べてしまうことの方が多い。

「たまには理天にも寄っていくかな」

誰に言うふうでもなく、ソンテがぼそりとそう呟いた。流れ星の欠片を眺めるような格好でしばし黙り込んでいたが、ややあってそれを口の中にぽいと投げ込んで咀嚼する。フィオロンとシューランも、それに倣うようにして藍色の欠片を口に含んだ。舌の上にそれを乗せると、木の実よりも花に近い、なんとも言えない芳しい香りが口内に広がった。舌の熱で少し溶かせば、まったりとした強い甘みが溢れてくる。しゃくしゃくと噛むとほのかに苦みも感じられるが、それもまた美味い。皆口々に「ムウ」と喜びの声を上げて、その味わいを楽しんだ。

「絶対流れ星のほうがおいしいのに、鹿祭りで食べるものってなんであんなにおいしい気がするんだろう。どこの町の露店でもたいしたものは売ってないって、おれは最近やっと気づいたんだ」

悩ましげに唸るメルの様子がなんだか可笑しく、シューランとフィオロンは思わず笑ってしまう。ソンテも気分が良くなったらしく、体を動かすと言って大広間を出て行き、エルメもそれについていった。エルメは幼い頃から踊りを好まず、メルが楽しそうに歌い踊っているときも横で鼻歌を歌う程度だったのだが、黒の国伝統の舞はどうやら彼女の性に合うらしい。メルによると、最近はなかなか楽しそうにソンテたちの真似をして舞っているのだという。それはぜひ見てみたい、とフィオロンは階下の様子を眺めようと立ち上がったが、シューランに止められてしまった。ただでさえ青の国では舞を見る機会が少なく、皆が皆エルメの舞を見てみたいと言うものだから、近々『お披露目』をする約束をしたそうなのである。その代わり、そのときまではあまり練習しているところを見ないでほしい、とエルメから言われたのだそうだ。

「それはうまく丸めこみましたねえ。誰が約束をさせたんです?」

「言い出したのは誰だか忘れたけど、約束の相手はおれとソンテ法師とシューラン法師と、理天の先生みんなと、その他たくさんと、あとフィオロン先生も追加しとく」

メルは生意気そうな目つきでにやりと笑う。

「そういうことなら楽しみですねえ。そうだ、せっかくなら菊祭りの頃に見たいですね。ちょうどエルメの誕生日ですし、素敵でしょう」

「それはいい考えだ。吉日に舞を披露するとは縁起の良い!メル、メル、あとでエルメにそう伝えておいてくれ」

「それはいいですけど、二人とも、まずは明日の鹿祭りじゃないですか!おれは今ちっとも菊祭りのことなんか考えたい気分じゃないのに、大人ってなんでこう気が早いんだろう」

呆れたような顔でメルがそう言うのがなんだか可笑しくて、フィオロンは少し笑ってしまった。「菊祭り」や「菊の日」とされるのは第九月九日、秋の祭は祈りの日である。春夏の大祭とは異なり、幼い子どもたちが心待ちにするような祭日ではないが、一年で最も縁起が良いとされる特別な日だ。しかし、信心深い両親の元に生まれたフィオロンでさえ、幼い頃はただ歌を歌う日だという認識しかなかったように思う。メルが秋の祭にさして興味をそそられない心情もわからないではない。一方シューランは「メルの言うことにも一理ある」としばらく笑顔で頷いていたが、次第にそれも、何か幸せな思い出に浸るような、不思議と柔らかで落ち着きのある表情へと変わっていった。

「わたしも若秋の頃は春と夏の大祭だけが楽しみだった。だが大人になってからはな、菊祭りも良いものに思う。とても良い日に。朱の国へ帰ってからは特にだな。わたしは明日の鹿の日と同じくらい、今からでも菊の日が待ち遠しい。エルメの舞を見に行くときはマイマとアイシュも連れて行きたい。二人と一緒にあの子の舞を見れたら、きっと魂が膨れ上がるように幸せだろうな。きっと素晴らしい日になる」

シューランは朱の国、朱雀の都出身である。しかし「様々な土地に住んでみたい」と言い、十五から二十五歳頃までは各国のあちこちを放浪していた。実際、彼は東世四国各所の寺院に所属した経験があり、その名残で今でも顔が広い。体力自慢で長らく僧兵の職に就いていたが、十年前結婚を機に再び朱雀へ住まうようになり、それと同時に以前からの勧めを受けて研究士へと転向した。

東世では古来より、危険な仕事をする者や長期間家を空ける者は、髪を剃って家族や恋人へ預ける習慣がある。研究士となって以来ソンテも短髪を貫いているが、歳若い者は好んで髪を短くすることもあるため、彼の髪を見ただけでは一概にそのような職の者だとはわからない。しかしシューランの髪はそれよりもさらに短く、一目で家族へ預けるために切ったのだとわかる。

シューランの髪を預かるのは彼の伴氏であるマイマだ。シューランと話したことがあるほとんどの者は、会ったことがなくとも「マイマ」の名を知っていた。

「マイマ!我が伴氏ながら可愛い名だなあ!」

これがシューランの口癖だからである。家族の話をしているときはもちろん、突然「マイマ!」と口にした直後にそう叫ぶこともあるので、彼の周囲にいると自然と覚えてしまうのだ。シューランにとっては愛する女性の名それ自体が歌のようなものなの、なのだという。

誰の目から見ても仲の良い伴伴だが、長年子宝に恵まれず、昨年ようやく決心し珠珠の子を迎えた。珠珠の名はアイシュという。シューランはしばらくの間「美しい子だ、美しい子が息子になった」とはしゃいでいたが、彼に会ったというエルメとメルの話では、決して親の欲目というわけではなく、確かにアイシュは幼いながらに見たこともないほど綺麗な子なのだそうだ。アイシュとシューランは肌の色こそ似ていなかったが、二人とも髪の色が淡く、鮮やかな青の瞳も似ていたため、父子が並ぶとそっくりでこの上なく愛らしい、と、マイマもキャメラマシンを一時も離さないのだという。

シューランとメルが菊祭りの話をしている間、フィオロンは静かに茶の湯の香りを楽しんでいたが、ふと思いついてシューランに提案をした。

「法師、明日またお餅を作りますが、ご家族の分も用意しましょうか」

「いや、結構」

「おや、そうですか」

「フィオロン先生からいただく餅はなあ、それはそれは美味しいんだ。いや、本当に美味い。しかしいつも、あまりにたくさん持たせてくれるから、道中食べきれず必ず余るんだ。その余ったのを家でマイマとアイシュが食べて、それでも一個か二個余るから、次の日に誰かの弁当にしている。だからいつもと同じ量で充分だ。二人ともとても美味しいと毎回喜んで食べているよ」

「そうですか」

声音こそ常時と変わりないが、自分が作ったのだから美味いのは当然だ、と言わんばかりにフィオロンは胸を張った。フィオロンの作る餅は、やけに大きいことを除けば特に余所の餅と代わり映えないように見えるのだが、不思議と美味しくて他のものとは比べ物にならない、と、どこへ出してもとにかく評判が良い。餅の本場は稲作が最も盛んな朱の国であるが、そこで生まれ育ったシューランやマイマが褒めるのだから、東世中の誰が食べても美味いと言うのかもしれない。

「しかし、マイマか。やはり可愛い名だな……」

しみじみと噛みしめるように、シューランはお決まりの独り言を漏らしたが、どうした気まぐれか、今日はフィオロンがそれに食いついた。

「前々から考えていたんですが、わたしはメルもなかなか可愛いと思いますよ」

「ちょっと先生。おれを引き合いに張り合うのやめて」

メルはほのかに顔を赤くして横目でフィオロンを睨んだが、フィオロンは無視した。

「あ、可愛いで思い出しました。おまえたちの着物を預かったままでしたね。綺麗にしましたから、忘れないうちに持ってきます」

「あぁ、ありがとう……でも、なんで可愛いで思い出すのが着物?」

メルから訝しげに問われ、フィオロンはふっと微笑んだ。

「とっても可愛かったんですよ、いつの間にかエルメよりメルの服の方が大きくなっていて。それでもまだ私のものよりずっと小さいですけれどね」

シューランはなるほどと笑ったが、メルにはあまりよくわからなかったらしい。不思議そうに口を曲げているメルの片頰に軽く触れてから、フィオロンは静かに立ち上がり、迎賓舎を出た。

 

 

  *  *  *

 

 

ソンテが布団の中から這い出ようという気になったのは昼頃で、鹿時計はほとんど真北を指していた。こんな時間だというのに、外も二階もあまりに静かで不思議な感じがする。ソンテがごろごろと転がっているこの寝室は、他の三部屋とは隣接しない階段脇の部屋だった。研究士の間でのみ『ジュゼの部屋』という呼び方で通じる。実は『ソンテの部屋』と呼ばれる部屋も別にあるのだが、ソンテが迎賓舎へ到着した日、その部屋にはすでにジュゼの荷物が置かれていた。しかしそんなことは日常茶飯事で、自分の名前を冠している部屋に必ず泊まるという決まりはない。どこの部屋と互いに伝え合うのに便利だからと、適当に名付けただけである。

あまり腹は減っていなかったが、起き上がって体を伸ばすと無性に白湯を飲みたくなった。眼球も手足も肌も内臓も、身体のあちこちがからからに乾いているようで気持ちが悪い。ソンテは誰もいないだろうとたかをくくり、寝間着を脱いでいる途中のような格好のまま二階へ上がった。階段を昇りきって大広間の扉を開けると、意外なことに人の影がある。ソンテがよくよく目を凝らすと、長椅子の上で縮こまって座っているエルメと目が合った。互いに一瞬、黙りこくって固まる。二、三回瞬きをしたのち、エルメは少しだけ顔を持ち上げて、小さなかすれ声で「おはようございます」と呟いたが、ソンテが「おはよう」と返すと、彼女はまた干した茸のように縮んで小さくなってしまった。

おそらく、約束相手のジュゼが帰って来ていないのだろう。だからといってメルや他の者についていく気にもなれず、意固地になってジュゼを待ち続けている、といったところだろうか。今更ではあるが、ソンテは脱げかけの寝間着の胸のあたりを引っ張りあげながら思案した。長椅子の下には毛皮の外套らしきものが落ちており、エルメはすぐにでも出かけられる準備が整ってるように見える。

「これからおれと行くか、エルメ」

「大丈夫です。ここで待ってますから」

「無理にとは言わないが、おれと一緒にいるぶんには困らないだろう。たまに戻って来ればいい、ここへ」

ソンテはそう言いながら大広間の床を指差す。すると、それまで憮然としていたエルメの表情が、そのまま泣いてしまうのではないかというほど急に緩んだ。ソンテに非はないはずだが、なんだかいたたまれない。いつまでこうして座り込んでいるつもりだったのか知らないが、案外融通の利かない幼な子のようなところがある、と呆れもした。

「服を替えてくるから、白湯を作っておいてほしい」

床を撫でていた寝間着の裾を翻すように踵を返し、ソンテは再び階段を降りた。

支度を終えて大広間に戻ってきたソンテを見て、エルメはおや、と首を傾げる。再び現れたソンテがまとっていた服は、どこかで見たことのあるアルカディエだった。

数年に一度、各国の寺院で用意する安価な衣服のことをアルカディエと呼ぶ。これは東世中すべての人のために作られるもので、人によって仕事着にすることもあれば晴れ着として用いることもある。アルカディエは格式の枠から外れており、また体を動かしやすいものが多いため、その性質は学院の教師が着る制服に近しい。とはいえ、一国だけでも四種類から五種類のアルカディエを作るため、凝った意匠のものから首を通すだけで着られる大布ようなものまで、色形は様々だ。もともとは着るものを自力で決めることが難しい人々に向けて作られたのだという。そのため、多くの要望を取り入れてアルカディエの種類が豊富になってしまった現在でも、わざわざ「これが欲しい」と言わなければ僧尽が勝手に選んで持ってくるらしい。

ソンテはどちらかというと自分で着るものを選ぶのが好きなほうなのだが、他人が勝手に用意するという点を面白いと感じるらしく、新しいアルカディエが出たら一着か二着を適当に持ってきてもらうのだと言う。要するに運試しや占いのようで楽しいのである。

「これはたまたま気に入ったからよく着る」

ソンテはそう言いながら、エルメに腕を広げて見せた。渋い緑色の着物は立襟で、留め具は黒い。袖や留め具の周りには白の糸で少しだけ刺繍が施されている。よくよく見れば、確かにソンテが好んで着ている私服に雰囲気が似ているのかもしれない。一方のエルメは、将来きっとアルカディエの世話になろうと決心している一人である。今はメルが選ぶ服が自分にも好ましく感じるので譲ってもらっているが、もし一人で買ってこいと言われたら困ってしまう。今日もほとんどメルから譲ってもらったもので固めているが、甘くなる前の果実のような、明るい翠色で刺繍が施された靴は、唯一自分で選んだものだ。

ソンテが首の後ろから毛皮の塊のようなものを出したのを見て、エルメも床に落ちたままの外套を拾い上げた。まずは頭巾になっている部分を頭に被り、余った部分を羽織って胸の前で紐を結ぶ。頭巾には鹿の耳に見立てた飾りが付いている。ソンテの用意したものは腰に縛りつける形になっており、尻の部分を白い毛皮で覆う。神僧として舞を披露する際はこれに加えて頭にも長布を被るはずだが、今日は非番のため省略するらしい。

鹿祭りの日は知狎が人に紛れて街を歩いているのだという。畏れ多くも知狎の足を踏んでしまったり、多少の非礼があっても見逃してもらえるようにと、毛皮の小物や化粧で鹿のふりをして出歩くのが東世共通の習わしだった。エルメが被っているのは食用の余りと思しき鹿皮を継ぎ合わせたものだが、ソンテが尻に着けている白い毛は人工のものだという。エルメはわずかに首を傾げた。

「本場の神僧なのに、ですか」

「これが本場の神僧の知恵よ。おれは年中使うから、水洗いできる頑丈な人工毛が一番良い。鹿の毛だろうかネズミの毛だろうが人工毛だろうが、知狎がこんな飾り一つで本当に騙されるわけないんだから。何でもいいんだ、何でも」

「元も子もないですね」

ソンテとエルメは互いの毛皮を撫でたりつまんだりしながら迎賓舎を出ると、正門のある方角を向いて横並びになった。ソンテに促され、エルメは首から取り出した杖で自分の左手をパシパシと叩く。

「ニエ、ニエ、ニエ」

エルメにとって最も得意な呪号を唱えながら、左手でソンテの左手首を強く掴んだ。太い糸で自分の左手をソンテの腕にしっかりと縫い付けるさまを想像しながら、さらに数回杖で叩く。

「いけるか」

「はい、大丈夫です」

エルメの答えに頷き、ソンテは呼吸を整えるようにしながらすっと脚を開いた。

「ハイ」

まるで未だ寝ぼけている魂を揺り起こすように一度、高らかに呪号を唱える。東世で最も古く、現存する他国の呪号の原型ともいわれる黒の国の呪号は、さっぱりとして小気味良い、なんとも明快な響きである。もう一度、今度は囁くように小さく呪号を唱えると、ソンテは踊るように右半身を大きくしならせた。そのまま一歩、まるで体重を一切失ったかのようにふわりと無音で跳躍する。エルメの体もソンテに引っ張られ、地面を蹴ってもいないのに足が浮き上がった。冷たくもなければ強くも弱くもない、風のような何かが肌の表面を流れている気がするが、不思議と不快ではない。次の一瞬、底なしのどこかへ落下していくような感覚に襲われ、エルメは反射的に目を瞑ったが、すぐにとんと足が着いた。目を開けると、そこはもう藤京学院の敷地ではない。様々な食べ物の匂いが漂う賑やかな広場の端にぽつりと立った二人は、軽く一面を見まわした。

どこを向いても鹿皮を被った人々で溢れていて、見慣れない露店があちこちに立ち並んでいる。普段とはだいぶ様変わりしているが、エルメはこの場所に見覚えがあった。紫錦区との境界に近い、藤京西麓寺院の一角である。

「昨日は青龍へ行くっておっしゃってたのに。藤京でいいんですか?」

「うん。なんとなく」

そう言ってソンテは不自然な角度でエルメの方を向き、右手で埃でも払うような仕草をする。エルメの左手と自分の左腕を縫いつけているものを剥がそうとしているらしい。

「そんなんじゃ解けませんよ。青龍まで行くと思って強めにくっつけたんですから」

「くっつけるのがうまいな。これなら黒の国へも連れて行けそうだ」

エルメが杖を使って魔法を解くと、ソンテは気持ちよさそうに大きく伸びをした。

普通の人間ならば辻馬車やトンネルを使い一日以上かけて移動する距離を、ソンテはたった一歩で移動することができる。似たようなことができる者は少なからずいるが、よく見知っている場所や単調な一本道など、ごく狭い範囲に限られる場合が多い。誰から教わったわけでもなく使うことができるが、こうするのだと他者に教えるには複雑すぎて難しい、そのような魔法は他と区別して珠法(じゅほう)と呼ばれる。珠法は生まれてくるときに神から授かったものなのだという。そのためか、神僧は人々が重宝するような珍しい珠法を使う者が選ばれるのだ、というまことしやかな通説があるが、ソンテはそれについて

「神々は誰がどんな珠法を使うか、ご存知ないしご興味もない様子であそばされるから、おれは全然関係ないと思う」

との持論を語っている。

ともあれ、エルメがジュゼを待たずに街へ出る気になったのは、ソンテがこのような珠法の使い手であるからに他ならない。こうやって繁華街に出て年に一度しかない鹿祭りを楽しみながら、ときどきジュゼが帰っていないかと迎賓舎を覗きに戻ることもできる。

以前からことあるごとにソンテの珠法の恩恵に与かり、多くの者が「感謝してもしきれない」と言って憚らないのだが、エルメはかつて一度だけこの珠法を恐ろしいと感じたことがあった。あるとき、エルメはふと思いついたことをそのままソンテに尋ねたのである。

「移動の途中で法師から手を離したら、わたしはどうなるんですか?」

「それはわからない。けどきっと、二度とおまえの魂に出会えなくなるだろう、というのはわかる」

エルメにはそれがどんなに厄介なことであるのか想像もつかないが、ともあれ何よりも魂を大切に考える東世の民が真顔でそう言うのだ。ただ「死にますよ」と言われる方がよほど穏便である。

「いろんな匂いがするから腹が減ってきた。せっかくだし、まずは鹿肉をかじりたい」

「法師、昨日の晩からずっと食べてないんですか?」

「いや、フィオロン先生と遅くまで酒を飲んでたから……おまえが思っているよりは食べてると思う」

「どこにでもお酒の仲間がいらっしゃるんですね」

「いや、そういうわけでは。ただ酒が好きなやつはどこででも酒を飲むから、そばに仲間がいると自然と集まってしまう。虫のような……なんかそういう習性……」

ソンテはなぜか気難しそうな表情で顎に手をやる。もしかすると、ソンテにもフィオロンにも、エルメには計り知れない何かしらの苦悩があるのかもしれなかったが、今はそれを思い遣っているときではない。

「わたしも腹が減りました。ほら、鹿のシチューならそこで売ってますよ。わたしは別のが食べたいのでちょっと探してきます」

「待てエルメ、二人いるからには効率よく探す。だが鹿肉の優先順位は遵守しろ」

「はい大師。炙り、焼き、煮込み、挽き、菓子ですね」

「ムウ。炙り、焼き、煮込み、挽き、菓子。ではここで一旦解散する。入手したものは逐一知らせるように」

「逐一お知らせします」

そう答えると、もう目の前にソンテはいなかった。例の珠法を使ったのかもしれないが、元々体を動かすのが得意な人間であるから、人の波を器用に縫って走り去っただけかもしれない。一人残されたエルメは、少し辺りを見まわしてから、適当な方向へ歩き始めた。

「ジュゼ法師の分も買っておこうかなぁ」

不意に小さくはない独り言が口から出てしまい、エルメは咄嗟に口を押さえた。周りは賑やかだし、誰も気に留めないのだから好きなだけ独りで喋っていて構わないのだが、癖なのである。

ジュゼのことだから、おそらくたまたま到着が遅れてしまっているだけだろう。今日中に帰ってこないということはないはずだ。しかし、帰ってきた直後のジュゼはひどく疲弊しているだろうし、きっと腹を空かせているに違いない。

「長い仕事から帰って来ると、無性に鹿が食いたくなる」

何年も前だったが、ジュゼが以前そう言っていたのをエルメは覚えていた。ジュゼは幼い頃から鹿肉の臭みを嫌い、カレーなどの煮込み料理にして食べるのが好きなのだという。それなのに、疲れているときだけは不思議とただ焼いただけの鹿肉の塊が恋しくなるらしい。

ジュゼは今、どんなに疲れているだろう。たった一人だけで『ここ』を長く離れるのは、魂がすり減るほど過酷で辛いことなのに。エルメには想像しきれない苦しさや恐ろしさが一体どんなにあるだろうかと、考えるだけで胸が痛んだ。

だからと言って、待ち構えてジュゼを出迎えたところで、エルメにはきっと何もできないだろう。ジュゼにどうしようもできないことは、エルメにはますますどうしようもない。身体も魂も、きちんと休めることは自分一人にしかできない、と、かつて理天学院で言われたことがある。「自分の身体は自分で休めるものであり、誰かが代わりに休ませてくれることはない」という話でもあり「傍についているよりも、いないほうが役に立つこともある」という話でもあった。

人を労わる気持ちは誰にでもあるものだが、誰もがそれに救われるとは限らない。世話を焼きたいなら上手くやれ、ということだろう。しかしながら、自分の周りにいる人々は自分たち姉弟を助けてくれるのがいつも上手い、とも思う。押し付けがましいお節介に困り果てたという記憶はあまりない。放って置かれた記憶ならいくらでもあるのだが、かといってそれが寂しいとも感じなかった。面と向かって構われずとも、誰かが常にエルメのことを気に留めている。あるいはエルメたちにのために何事かしているらしい、と、幼いながらに理解していたのである。今思えば、案外そうでもなかったのかもしれないが、少なくともエルメの方は、彼らが自分のことを大切に思ってくれているという確信のようなものを抱いていた。寂しさを感じにくかったのは「想われている」と信頼していたからである。だから今や、一人きりでいる時に「今頃誰かに心配をさせてしまっているな」などと都合良く考えられるまでに成長したのだ。

「ぼくたちは自分勝手なことしかしていないのに、それを優しいと思うなんてエルメのほうが優しいみたい」

昔、ユノンが眉尻を下げて困ったように笑いながらそう言っていたのを思い出す。そうか、別に自分を思い遣ってしてくれたわけではなかったのか、と当時は目から鱗が落ちたものだったが、その頃にはもう、それはそれで良いと思えるようになっていた。自分か弟か、きっとどちらかが「これからもずっと先生の好きにしてていいよ」と言ったと思う。

 

『ムウムウ、藤京学院の皆さま、お元気ですか。』

 

『ぼくたちはいつも通りです。だから報せなどはないのですが、研究士たちへ流れ星を食べさせてやりたくなったので送ります。辛かったことも、疲れて嫌な気分になったことも、全部忘れて、流れ星がこんなに余ってしまってどうしよう、という悩みで彼らの頭が一杯になってしまえばいいと思って、みんなで分けても必ず余るくらい大きな流れ星にしました。』

 

『明日は鹿祭りですが、ぼくとシャート先生は理天学院にいます。二人でもっと大きな流れ星を作って遊ぼうと思っているので、近くにいらしたらぜひ食べていってください。今年はエルメもメルもいないので少し寂しく感じますが、ぼくたちの流れ星が食べられないくらい、お腹いっぱいで帰ってきてくれたら嬉しいです。』

 

『それでは良い休日を。』

 

歩きながらジュゼのことを案じているうちに、エルメは自然と昨日食べた流れ星のことを思い出していた。「理天学院から来た」というよりも「ユノン先生が勝手によこした」流れ星である。フィオロンの言葉通り、本当に要件らしい要件は書かれていなかった。いつもの平和で、暢気で、独り言のようなただの『挨拶』だけで、なんとも牧歌的と謳われる理天らしい。

立場は異なるが、理天の皆がエルメたち姉弟を想う気持ちと、エルメが今ジュゼに抱いている気持ちは似ているのかもしれない。

「お腹いっぱいで帰ってきてくれたら、か……」

エルメは何度か口の中でユノンの言葉を反芻してみる。そして、やはり鹿肉は三人分買うことにしよう、と心の中で決心した。

 

 

後編へ続く