【小説】休日、北部街道にて
珍しいことに、その日ユッセは朋人(ゆうじん)の妹と閑散とした北部街道を歩いていた。
珠銭(じゅせん)をやるから妹を見ていてほしい、と頼まれたのが今朝のことである。特に何かあったわけではないが、急に独りで街を歩きたい気分になったのだそうだ。
ライヒは兄そっくりの整った顔立ちをした快活な少女で、ユッセにとっては確かに朋人の妹なのだが、教え子とも言える。この春から彼女の兄もユッセも、紫錦黒海学院(しきんこくかいがくいん)の教職として名を連ねているためだ。とはいえ、今のところ直接彼らが教育に携わることはない。
青の国、青龍の都の北東に位置する紫錦区は、稲作が可能な平地が多かったため古来より豊かであった。青の国はもともと他国と比べて面積が小さいのだが、東隣の藤京区(とうけいく)は人の住める土地が本当にわずかで、生計を立てるのに自然と海を頼るようになった。一方、西隣の理天区(りてんく)は、広さはあっても山と谷ばかりであり、今でも小さな畑が耕される以外はさっぱり開発が進まない。両隣の理天と藤京に米やら小麦やらを売り紫錦は潤っていたわけだが、長らく解決しない悩みが一つあった。土質が優れないのである。
理天区の畑に使われる山の土は優秀だ。農作物を肥やすのに望ましい栄養を何かしら含んでおり、しかも水との相性が良いので扱いやすい。もちろん場所によって性質は異なるが、どれも生命力を感じる強い土だ。一方、紫錦の土はどうにも扱いづらい。悪い点について一概には言えないが、どうやら北部の海に近いところほど塩分を含んでいるらしい。紫錦の土が気難しいことは随分昔からわかっていたようだ。南部の「使える土地」は何百年も前から稲と小麦を育てるのに充てているが、北部は充分な広さの平地があるにも関わらず、現在に至るまでほとんど手つかずのままである。現在から四十年ほど前、その界隈に黒海学院が建てられた。学院を一つ用意するには広大な土地が必要だ。敷地内に教師のための自宅や子どもの住む寮館、資料館、医院などが併設されるためである。が、それでも土地が余った。そして近年、余っている土地が勿体ない、なんとか利用できるようにしたい、という声が、どこからともなく上がったらしい。かくして、紫錦北部を農地として活用するため、学院が一念発起とばかりに試験的な畑を作る運びとなった。その畑作りのため、わざわざ黒の国の玄武大学から召集されたのがユッセである。
ユッセはもともと青の国青龍区の出身だ。今のところ紫錦区での暮らしに不満はないし、学院勤めも悪くないと思っている。細々とした記録を取りながら、時間をかけて少しずつ畑を育てるのだって楽しい。自分と同じ時期にライヒを連れて赴任してきた朋人ともすぐに意気投合し、仲良くやっている。我ながら、実に充実した生活を送っていると思う。
ただ、進学のために黒の国へ移り住んだとき、ユッセは漠然と「青の国にはもう戻らないだろう」と思っていたのだった。うっすらとではあるが、戻るまいという決意すらあった。しかし、玄武大学に在学していたのはせいぜい4、5年である。案外すぐに戻ってきてしまった。それがなんだか不思議で、特にこうしてのんびりと過ごす日は、夢でも見ているような妙な心地になることがある。
「ねえユッセ先生、あっちに行ったら海かな?」
「そうだね。ぼくとライヒはあの三角のお山の方に向かってるから、ここから左にずっと歩いていったら海だよ」
朋人とそっくり同じ顔をしたライヒから先生と呼ばれるのは落ち着かないのだが、今のところは好きにさせている。ユッセとライヒは十歳違うから、ライヒは今年十歳になったはずだ。もう少し大きくなったら、呼び方についてやんわりと掛け合おうと決めている。
「ライヒ、どこに行きたいの?」
「どこでもいいの。ユッセ先生の行きたいところでもいいよ」
なかなか自由奔放だな、と思いながら、ユッセは曖昧に頷いた。
ライヒの兄はもともと面倒見の良い性格だが、歳の離れた妹のことは特に可愛いようで、休みの日に彼女を一人にするのが忍びないのだという。とはいえ学院の寮館には誰かしらいるはずで、一人にはなりっこないのだが、そういう話ではないのだろう。おそらくライヒのために、わざわざ時間を割いてくれる誰かが必要だと考えているのだ。だから一緒にいてほしいと頼まれたものの、特に何をしろとまでは言われなかったのではないか。ユッセは勝手にそう推察している。
ライヒの両親は理天で畑をやっているらしい。離れて暮らしているものの、家族仲は良いようで、この兄妹は頻繁に里帰りをしている。なので、早々にライヒを持て余してしまったユッセは、彼らの両親のところへ連れて行ってしまうかと考えたのだが、それを提案したら「おうちは兄ちゃんと行くからいい」と却下されてしまった。
ライヒにそう言われたので、なんとなく理天とは反対方向である藤京へ至る道を選び、こうして二人ぶらぶらと歩いているのである。しかし、山育ちのライヒは見かけよりも足腰が強いようだ。坂も砂利も厭うことなくいくらでも進んで行こうとする。歩くことが好きなのかもしれない。なので、ライヒより先にユッセのほうが、このあてのない散歩に飽きてしまった。変わり映えのない田舎の風景も軽い運動も、あまり楽しめない質なのである。
そこでユッセは、ライヒがぼんやりしている隙をついて、首から杖を取り出すことにした。杖を軽く振っては素早く仕舞う、というのを先ほどから密かに繰り返している。四、五回はそうしただろうか。ようやくライヒが怪訝な顔をした。ぴたりと立ち止まり、無言で少しばかり思案したあと、閃いたと言わんばかりにユッセを仰ぎ見た。
「魔法使った!?」
「あ、わかった?」
「いつ?すごい!もう藤京なの?わたしたち藤京にいる?」
「この辺はまだ紫錦だけど、結構飛ばしたからもうそろそろかなぁ」
すっかり興奮したらしいライヒは、右手を首の後ろに回して「ハヤ!ハーヤ!」と数回叫ぶ。が、何も起きない。
「ライヒ、もう杖出るの?」
「出るよ。でも、まだいつもは出ない」
ユッセが初めて自分の首から「魔法の杖」を取り出せたのは七歳のときだ。当時通っていた学院の中ではかなり早い方だったが、自分の意思のまま自在に取り出せるようになるまでは、結局一年以上かかった覚えがある。
「今日は出ないみたい」
ライヒがいじけるように俯いたので、ユッセはその頭の上に、ぽんと軽く手を乗せた。
「焦らなくても、大人になれば勝手に出るようになるよ」
「ううん、うん……わかってるんだけど……」
こんなにも困難なことが、本当にできるようになるものなのか、と言いたげな顔だ。
「赤ちゃんと同じだ。みんな生まれてすぐには歩けないけど、二、三年経ったら自然と歩けるようになってる。杖もそんなもんだよ」
「じゃあ頑張って杖を出す練習しても、意味がないの?」
「うーん……まあ、報われないことの方が多いかもしれないけど、たまに報われる人もいる」
杖は一人前の魔法使いの象徴だ。東世では初潮に例えて説明するのが常套手段なのだが、せっかくの休みに先生らしいことを言ってやるのも面倒くさい。だいたい、学院に住まって皆から先生と呼ばれてはいるが、毎日朝から夕まで畑ばかりに構っているので、教えることは専門外である。ユッセは細かい説明を省いて話を逸らすことにした。
「このまま藤京に行く?」
「行く!魔法で連れてって!」
慣れたもので、ライヒはユッセの左腕をがっしりと掴んでそうねだる。ユッセは杖を掌で数回転がし持ち直した。
「シャンフォータン」
軽く杖を振りながらお馴染みの呪文を唱える。すると、雲が風に流されるように、周囲の風景が溶けて移ろいだ。二人は相変わらず野暮ったい野道に立っていたが、よく見れば、先ほどまではなかった低い木の柵が、人の通る道とその外側とを隔てている。少し先の方には、木々の他に大小様々な建物の影が見えた。寺院である。この北部街道は一度、藤京西麓寺院(とうけいせいろくじいん)の敷地を貫くのだ。寺院を抜けてさらに進むと、いくつかの大きな繁華街の脇を通りながら、藤京でもっとも古い学院である藤京学院に終着する。
今の瞬き一回分の時間で、ユッセとライヒは十帰路(キロ)ほどを移動した。
「ここ藤京の寺院?」
「うん。この寺院がちょうど紫錦と藤京の境目になってるんだよ」
この辺りまで来ると、ユッセにとっては知らない道ではないが詳しい道でもない。さすがに藤京学院まで行ってみる気にはなれなかったので、特に目的は決めず、慎重にじりじりと進むつもりで魔法を使ったら、たまたまここで止まってしまったのだった。だがライヒにはどうでもいいことだ。さっと身軽に柵を乗り越えると、楽しそうに踊り出してしまった。通常、寺院内の広場や空き地は公園として扱われるため、柵も子どもが安全に乗り越えられる高さとなっている。ユッセもライヒに続き、低い柵を跨いだ。
「ユッセ先生、さっきまでは呪文使ってなかったよね」
「だって呪文使ったらライヒにばれちゃうもん」
「なんでわたしにばれるとダメなの?」
「ぼくが面白いから。ライヒに気づかれないようにちょっとずつ進んで、どこまで行けるかなって遊んでたんだ」
ユッセの答えにけたけたと笑ってライヒは飛び跳ねた。どうやら機嫌が良いらしい。踊ったり駆け回ったりしながら、青の国の民謡を歌い始めた。身体が小さいせいもあるのだろうが、ライヒは同年代の女の子よりもやや幼気な印象がある。なのに妙に歌が上手い。声だけが大人びて感じる。いまライヒが歌っているのは、ユッセにはあまり馴染みのない歌だった。ところどころ聞き覚えのある旋律ではあるが、理天の歌なのかもしれない。
「ムーウ」
ときどき合いの手を入れるように叫んだが、歌うことに夢中のライヒは褒められようが放っておかれようが、あまり気にしていないようだった。
「ムウ!」
突然、ユッセの横で子どもの声が響く。近所の春学生(しゅんがくせい)だろうか。ユッセには見覚えのない顔だ。彼は目を輝かせて、ぱたぱたとライヒのそばへ駆けていく。歌詞はまったくわからないようだったが、彼はライヒの歌声を追いかけるように一緒に歌い出した。それに気づいたライヒは、彼に合わせて少し声の調子を変える。どう変わったのかと聞かれるとうまく説明できないのだが、ユッセには、先程までライヒの気分次第で発せられる暴れ馬のようだった声を、突然現れた彼が隣を並走できるよう整えたような感じがしたのだ。
「あれは青の国の歌ですか?それとも紫錦の?」
静かに声をかけられてユッセが振り返ると、ほっそりとした若い男性が立っていた。ユッセと同じ年頃か、少し年上かもしれない。衣服も表情も少しくたびれた様子だが、興味深そうに子どもたちを観察している。
「はあ、青の国の古い歌です。といっても実はぼくもあまり知らないんですが……。山羊がどうとか言ってますし、理天の歌じゃないでしょうか。理天育ちの子なので」
「うちと同じようなご兄妹に見えたんですけど、違いました?」
「兄妹ではないですけど、まあほとんど兄妹みたいなものです」
彼は子どもたちからユッセへ視線を移し、なぜかユッセの顔をじっと見つめて「アヤ」と呟いてから、控えめに問うた。
「わたしと弟は白の国の者でして。あなたは青の国の方?」
「えっ……いや、はい、ぼくは青龍育ちで……今は紫錦で働いてますけど」
今日初めて会ったはずの彼が、なぜ不思議そうにユッセを見つめたのか、正直なところ、思い当たる理由がなくもない。が、ユッセには何もやましいことはないのだ。自分にそう言い聞かせながら、なんでもないふうを装ってライヒの方を向いた。
「ぼくも白虎の都には数回行ったことがあるんですけど、節というか、歌の調子が国によって少し違うみたいですね」
「ええ。各国の呪号の違いと似ています。青の国の歌は、広いところで声を張り上げて歌うのが心地いいようにできているのでしょうね」
呪号は魔法使いの「掛け声」だ。時代とともに変化するものの、ここ数百年の青の国の呪号は「ハヤ」で、漢字をあてると「魄奮」となる。自らの魂を鼓舞するような力強い響きの呪号だ。青の国で大きな魔法を使う機会といえば、網漁や農業、山岳を切り拓くときが大半で、そのため呪号も、何人かが集まって大声で叫ぶのに適した音となった。
一方、白の国の呪号である「ニエ」はかなり特殊である。白の国は東世の西端に位置するため、古来から東世の西隣の世界「西世(せいぜ)」の影響を多分に受けてきた。そのため他の三国の呪号とはまったく似ておらず、大きな声で発音しづらいという特徴も他と異なっている。
「あ、ほら。この歌。いかにも白の国らしいでしょう。流行りなんですよ」
彼の弟は、か弱そうな見た目に反して声はしっかりと出ているので、初めて耳にする歌だが歌詞がよく聞き取れた。穏やかな表情で囁くように歌っている。歌い手によって語りかけるような、とも、捲したてるような、とも表現できそうだ。拍のことなどはよくわからないが、ユッセは小気味良い旋律だな、と感じた。
「色っぽい歌ですね」
「意味なんかわかってないんでしょうけど、おちびにしちゃ趣味が良いわ」
彼は苦笑いのような表情で弟を見つめ、ため息を吐きながらその場に腰を下ろした。ちょうど良い遊び相手が見つかったので、弟のことはしばらく任せて、その間に一休みする算段に見える。
「ちょっと、タタン!お姉さんはそのお歌知らないのよ!あんたがちゃんと教えてあげないと一緒に遊んでもらえないわよ!」
兄から大きな声で叱られたにも関わらず、彼の弟は笑顔のまま、のんびりとこちらに両腕を振って見せた。
「兄ちゃんも歌うでしょ!」
「兄ちゃんはもう歌わない!」
またピシャリと声をはりあげると、彼は呼吸を整えてから首の後ろに手をやる。杖を出すときの仕草だが、彼が取り出したのは杖ではなく紫色の包みだった。足を崩し、あぐらの姿勢になって足の上で包みを広げる。中身は弁当だったようで、大きめの餅が六個ほど見えた。ユッセは、多いな、と思ったが、口には出さずに見ていると、彼から餅を二つ差し出された。
「多いわ。あげる」
* * *
彼は名をジジと名乗った。弟のタタンは今年七歳になるらしい。ジジは白虎大学に在籍したまま学院でも働いており、今回は用事があって藤京学院に数日滞在していたのだという。弁当はジジが用意したものではなく、藤京学院でお世話になった先生が持たせてくれたものだそうだ。用事自体はともかく、好奇心旺盛で落ち着きのない弟を連れて各所を巡るのは相当骨が折れたようで、ようやく帰れると思ったらどっと疲れが出た。藤京学院を出発してすぐではあったが、どうしても身体を休めたくてこの寺院に寄ったのだという。
「学院で小さい子に囲まれているときはこんなに疲れないんですけど、タタンと二人だとかえって疲れるの」
「ああ、ぼくも身に覚えがあります」
わわざわざ言わなかったが、今がまさにそうだ。
「なんとなく、何日も寮館へ置いておくのが可哀想な気がしたんですけど、でももう連れてこないわ。だいたい、寮館に置いておくのなんか何も可哀想なことじゃないのよ」
「それもそうですね。可哀想に感じる気持ちもわかりますけど」
「いつも、次は置いていくわって思うのに、いざ次の機会に直面するとやっぱり可哀想な気がして、結局また連れて行くんです」
「ああ、初めてじゃないんですか……」
ユッセは少しだけ笑った。
「ジジ先生はお優しいんですね。ぼくなんて昔から妹とそんなに親しくないので、お互いに好き勝手で、冷たいものです。一応死んだらわかるように連絡は取り合ってますけど、本当にそれくらいで」
「優しくても優しくなくても、ユッセ先生と妹さんのような関係が健全というものです。可哀想可哀想というのは都合の良い言い訳で、結局わたしが弟に依存しているようなものだから。本当、良くない執着ね。妹さんはもう大きいのでしょう?」
「はあ。歳が近いので」
「わたしもいずれは弟とそういう距離を取れるようになりたいわ」
ユッセは餅を口に含みながらもごもごとつぶやいた。
「あの、本当に、そんなふうに羨むようなものじゃないですよ。なんというか、妹も……用が済んだらさっさと帰っていきますし」
「でもユッセ先生は先ほどから、妹さんと仲が悪いとは一言も言わないじゃないですか」
「うーん。まあ、仲が悪いというほどではないんですけど」
「妹さんがお嫌い?」
「いえ、そんなことはないです」
昔は妹のことが嫌いだったような気がするのだが、自分の口からとっさに否定の言葉が出たことに、ユッセは少し驚いた。温かい餅を頬張りながら、ジジはユッセに微笑みかける。
「一人前の大人同士という感じがして、わたしは良いと思うわ」
「はあ」
なんと返事をしたものかとユッセが迷っていると、思わぬ助け船がやってきた。ライヒだった。タタンと二人であっちへ行ったりこっちへ行ったり、何やら忙しそうに遊んでいたのだが、雑草で花輪を編んでいたらしい。大きな花輪を恭しくユッセの頭の上に乗せた。
「ありがとう。立派なかんむり」
「ニン!」
胸を張るライヒの横で、タタンは下手くそな花輪を自分の頭上に乗せてにこにこ笑っている。
「かんむり?」
ジジは不思議そうな顔をした。
「これは理天で流行ってる遊びなんだそうです。ね、ライヒ」
「うん。タタンにも小さいのを作るからね」
そう言いながら、ライヒはタタンの手を取り、またどこかへ走り去ってしまった。
「理天で?なんで?」
ユッセの頭に載せられた花輪をまじまじと見つめながら、ジジはしきりに首を傾げた。
「頭部を飾りつける習慣は朱の国以外には根付いていないのよ。どういう由来があるのかしら」
「ああ、そうですよね。帽子を禁止にしていた時代もあるくらいだし。珍しいですよね、こういうのは」
ユッセは花輪を手に取ってジジに手渡した。
朱の国以外では、雨の日と「鹿祭り」の日以外に帽子を被ることは珍しい。これは、東世の人々が神格化する鹿や、一部の知狎(ちこう)たちに角が生えているためである。今でこそ頭部の装飾は自由であるが、昔は人間が頭部を装飾することは畏れ多い、神を騙るような行為であるとして、各地でたびたび禁則とされてきた。その名残が現在も残っており、頭を大きく見せる髪型や装飾品は、反骨精神の強い朱の国でしか発展しなかったのだという。
「これは統治者のしるしなんだそうですよ」
「統治者?僧尽の類ではなく、君主のようなものを指すのかしら」
「あはは、話が早いです。君子、皇帝だったかな。ぼくはライヒの説明しか聞いていないので、どれほど正確かはわからないんですけど。立派な人だけが被ることを許されるかんむりで、これは王冠と呼ぶんだそうです。理天では好きな先生や自分にとって大切な子たちに、こういうのを被せて遊んでいたらしいですよ」
「王冠なんて聞き覚えがないものだけど。どうしてそんなものが急に流行ったのかしら」
ジジが独り言のようにつぶやいたが、やがて二人とも沈黙した。ユッセはまるで減る気配のない餅を齧りながら、少し目を伏せる。
「白虎大学からわざわざ青の国に、それも藤京学院に何度も滞在されるジジ先生でしたら、おおよそ見当がつくのでは」
ジジは一瞬だけ、ユッセを見定めるような目つきをしたが、すぐにその鋭い雰囲気を和らげ、こくりと頷いた。
「……それもそうね。ありがとう、面白い話が聞けてよかったわ。わたしもともと歴史の分野の人間で、風俗や民話の研究をやってたんです。近頃さっぱりだけど」
へえ、とユッセは楽しそうに声をあげた。
「じゃあ、ぼくと全然違う。ぼくは玄武大でしたけど、もし在学中にお会いしていても、話す機会なんてきっとなかったですね」
「ユッセ先生は何を学んでいらしたんです?」
「農業!あと土とか!それと石も少し!」
「そんなに大きな声で教えてくれなくてもいいのよ」
ジジが少し意地悪そうな顔でそう言うので、ユッセははっとして紅潮した。ジジは少しだけにやりと笑ったが、これ以上からかうつもりはないらしい。餅を口に咥えたまま、ちょっとお茶を貰ってくる、とどこかへ行ってしまった。
それにしても、ジジから分けてもらった餅は、なぜかずっと温かいままだ。何か魔法がかかっているのかもしれない。柔らかくなめらかで、とても美味しかった。
* * *
ユッセはジジに、理天へ寄るのかと聞いたが、どこにも寄らずに帰るとのことだった。青龍大学から白虎大学へ抜ける「トンネル」を使う許可が下りているため、南北街道を通って青龍へ向かうという。人懐こいタタンはライヒと別れるのが寂しいようで、寺院を出て行く際に少しぐずったが、ライヒも別れ際には名残惜しそうな暗い顔をしていた。
北部街道を理天方面に歩くライヒの足取りは重く、来るときの半分程度の速度だ。まだ空は明るく、急ぐことはないのだが、ライヒを機嫌の悪いまま帰すのは避けたかった。朋人からは既に珠銭を受け取っている。タタンはライヒを大いに楽しませてくれたようだが、ユッセはというと、ライヒに何もしてやっていない。餅をひとつやったら美味しいと少し喜んだが、それもジジから分けて貰ったものをそのまま渡しただけに過ぎない。
「ライヒ、元気出して」
「そういえばね……」
「うん?」
しょぼくれた顔で俯いたまま、ライヒがポツポツと何かつぶやいている。よく聞こえなかったので、ユッセは地面に膝をついてライヒの顔を覗き込んだ。
「兄ちゃんが、言ってたんだけど」
「うん」
「兄ちゃんはできないけど、ユッセ先生はトランポリンできるって」
「ああぁ……トランポリンね」
「トランポリンしてみたい……」
悲しげに、しかし愛らしくおねだりをされてしまった。そのしおらしさも、わざとなのかそうでないのかまったく判別がつかないところが怖い。兄ならば分かる。ライヒの兄のアサンは、自分の美しさや逞しさ、人望の厚さ、さらには自分が人々から求められている理想像までよく理解しているので、それを利用しつつこうやってしたたかに自分の要求を通すことがある。多々、ある。要するにちゃっかりしているのだ。どうやら顔だけでなく、そんな要領のいいところまで兄に似てきたらしい。ライヒのはアサンのように計算ずくではないのかもしれないが、計算できるようになるのも時間の問題のように思えてならない。
「トランポリンかぁ〜。そっかぁ〜……」
「トランポリン」は西世の言葉だ。東世では、大きく跳躍しながらバッタのように進む魔法のことをそう呼ぶ。しかし、トランポリンは移動手段としてはそこまで一般的ではない。理由は簡単で、これをするととても疲れるのである。そのため、確かに魔力が弱い者はうまくトランポリンができないのだが、アサンができないと言ったのは多分嘘だ。おそらく、やってと言われないためにできないことにしているに違いない。大方、深く追及されるより先に「だけどできる人を知ってる」などと言って話の矛先をユッセに逸らしたのだろう。
「疲れるから」という理由だけで断るには、ユッセは珠銭を受け取り過ぎていた。他の子たちには言わないように、とライヒにきつく言い聞かせてから、ユッセは渋々彼女の小さな手を取る。爽快なほど大きな声で「ハヤ」と叫ぶのは、ずいぶん久しぶりのことだった。
* * *
ジジがあのような中途半端な場所で休んでいたのは、タタンにトランポリンをせがまれたせいかもしれない。
アサンの家から自宅へ向かう短い道中で、ふとそんな考えがユッセの頭をよぎった。幼い弟に甘いところがありそうなジジならば、わりとありえそうな話だ。そういえば、最初に出会ったとき妙にくたびれて見えたのも、風に煽られ髪も衣服もぐちゃぐちゃに乱れていたからそう感じたのかもしれない。自分のことはあえて棚に上げるが、タタンに振り回されるジジの姿を想像すると、なんだかおかしい。彼らはもう家に着いたのだろうか。土地勘がないため、二人の帰る場所が白虎大学からどれほど遠いものなのか、ユッセにはわからない。
そういえば、今日はまだ星を読んでいなかった、と思い出し、星空を見上げてみる。しかし、日中の疲れからか、あまり星を読む気が起きず、億劫だ。今日は何もせずさっさと寝てしまおう、と決めて、ユッセはひょいと花壇を跨いだ。先日アサンと遊びで作った花壇である。自宅の周りをぐるりと取り囲む形になっているので、家の中に入るにはどこかを跨がなくてはならない。扉を開こうとして、ふと、足元に何かが落ちていることに気づいた。しゃがんでよく見てみると、どうやら花輪のようだ。落っこちていたわけではないようで、花と雑草で編んだかんむりがきちんと四つ重ねて置いてあった。ライヒが来たのだろうか。他の子かもしれないが、まあおそらくライヒだろう、などと思案しながら、ユッセはひとつずつ花かんむりを拾った。
「すごいねえ!ユッセ先生はきっと黒海学院で一番魔法が上手だね」
トランポリンですっかり上機嫌になったライヒがそんなことを言っていたのを思い出す。「何と言われようがこれ以上は出ない」と突っぱねてしまったが、案外純粋に褒めてくれていたのかもしれない。
かんむりは、誰にでもあげていいものではないのだそうだ。欲しいと思っても、それを作って被せてくれる誰かがいなければ、決して手に入るものではない。王冠は唯一無二の名君にしか被ることを赦されないものだから、そういう決まりなのだという。
ユッセは拾い上げた花かんむりを、四つ重ねたままそっと頭に載せてみた。鏡がないのでどうなっているのかは見えないが、なんだか恥ずかしい。草と土の匂いがして、明らかに雑草の塊だとわかっているのに、ユッセには不釣り合いな、とても立派なものを身につけているような気がする。こそばゆいが、ほんの少し嬉しいとも感じた。花の蜜がじわっと滲み出てくるような、わずかな喜びではあるが。
それにしても、ライヒが作ってくれたものをアサンに自慢しても仕方がない。これを誰かに自慢するとしたら、妹だろうか。昼間に珍しく彼女の話をしたせいか、一番最初に思い浮かんだのが妹の顔だった。いつも用が済むとすぐ帰ってしまうが、アサンは「大した用事がなくてもちょくちょく来るひとだ」と言う。言われてみれば、そうだろうか。確かにひと月に一度くらいは会っているが、それを多いとも少ないとも感じたことがなかった。そういえばもう半月以上は会っていないから、そろそろ妹が会いに来る頃合いかもしれない。彼女の仕事の都合はまったくわからないが、次の休みを待たずにここを訪れる可能性もある。
ユッセは丁寧に花かんむりを腕に通し、自宅の扉を開けた。これを並べて壁にかけたら綺麗だろうか。昼間に貰ったものと合わせて五つあるから、窓のない壁を飾るのにちょうど良いかもしれない。薄墨色の壁に吊るされた花かんむりを想像し、ああ、きっと悪くないはずだ、とユッセは確信した。